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人間機械論 ―人間の人間的な利用―

サイバネティックスの父、ノーバート・ウィーナーが一般知識層向けに書いた『人間機械論』の改訂第二版
 本書は最先端の科学理論自体の難しさと高度な内容を一般向けに解説することの難しさという、二重の困難さが宿命付けられた本である。さらに言えばこの手の本は読み手の高い知識と教養と問題意識を必要とするものである。
 私は、あまりにも浅学の者である。その読解力の欠如に四苦八苦することは当然のことであった。したがって、本レポートは私の読書混乱記である。この本を介した私のサイバネティックス印象記である。

第一章 ウィーナーと物理学革命
~確率論的物理学の創出とオーソライズ~

19世紀末から、20世紀初頭にかけては物理学・数学哲学の人類史的大転換期であった。
物理学においては、17世紀以来300年間の原理とされてきたニュートン物理学(宇宙・世界像)からの離脱とその革命が起こっていった。それは、ローレンツ・アインシュタインの「相対性原理」や、ハイゼルベルグの「不確定性原理」に象徴されるものであった。
ノーバート・ウィーナーの「物理学革命」はそれらとは異なった切り口から遂行された。それは、「不確実性」「偶然性」をともなう物理学は、統計科学・確率論的物理として取り扱われるべきであると言う考え方に基づくものであった。
ボルツマン・ギッブズは、物理学に統計科学を徹底的に導入していったのである。ギッブズは、「確率論」の「測度」として熱力学のエントロピーを用いる仮説を打ち立てていた。

「ギッブズの功績は、この偶然性を考慮にいれる明快な科学的方法を最初に示したことにある」

「彼の仕事は次のような直感に基づいていた。すなわち、一般に、物質系の一つの集合―しかもいつまでも一つの集合としての自己同一性を維持するような集合―の一つのメンバーは、ほとんどすべての場合に、それが任意の一時国にその集合の中のどこに位置するかの確率の、その集合全体にわたる分布を、十分長い時間の間に結局は再現する。言い換えれば、ある条件の下では、一つの物質系は、十分長い時間の間には、その総エネルギーのもとで許される位置と運動量を持つあらゆる状態を経過する。」

 ギッブズが使わねばならなかった測度と確率の理論は、数学者ルベーグの「積分理論」として、純粋数学の諸分野のための道具としてフランスで出現した。

「ルベーグの師ボレルは、ルベーグの業績を彼自身の業績が物理学の道具として重要であると主張し続けた。」

 ウィーナーはギッブズとルベーグの確率論測度論を「ブラウン運動」に適用することによって、確率論的物理科学の確立の扉を開いたのであった。

「確率は単に物理学の数学的道具としてだけではなく、物理学そのものの骨組みの一部として認められるようになったのである。」

「この革命の結果、物理学はもはや必ずこういうことが起こると言うことを扱う学問とは言えず、何が圧倒的な確率で起こるかと言うことを扱う学問となった。」

「ニュートン物理学は万事が精密に法則通りに起こる宇宙を記述した。その宇宙は未来全体が過去全体によってぴったり定まるきっちり組成された宇宙だった。」

「ニュートン力学体系のもとでは、同一の物理学法則が、さまざまな位置とさまざまな運動量から出発するさまざまな物質系に当てはまるが、新しい統計物理学者たちは、この見解に新しい光を当てた。彼らは、いろいろな物質系は総エネルギーによって互いに区別されると言うことを保存したが、同じ総エネルギーをもつ物質系でも初期条件が違えばいつでもお互いにはっきり区別され、固定された因果律によって永久に記述されると言う仮定は棄てた。」

「確率的世界では、われわれはもはやある一個の特定の実在する宇宙に関する量や陳述を扱うのではなく、多数の類似の宇宙について回答が得られるような問題を扱うようになった。」

 ウィーナーの「確率論的物理科学」の確立は、1920年であり、ハイゼンベルグの「不確定原理」の確立は1927年のことであった。ハイゼンベルグは「量子」における確率論をとなえたが他に関しては依然として因果律を守った。
 ウィーナーの確率論的物理学・確率論的理論と測度としてのエントロピー概念の活用が、サイバネティックスの核心となってゆくものであった。

第二章 コミュニケーションの科学・工学・技術 
~物理学を革命した理論の「社会・人間」への展開~

物理学で確立したプロバブリスティックセオリーの人間と社会への適用は「コミュニケーション」の科学工学・技術の確立をテーマに探究されていった。制御(ホメオスタシス)や学習の概念などが洗練されていった。ホメオスタシスは、「神経生理学」の探究から学習の概念は動物学におけるネオテニー(ポルトマン)の研究やパブロフの研究から抽象化(転用)されていった。通報・フィードバック・制御(ホメオスタシス)・学習といった、キー概念は、「情報」とパターン、組織性(秩序度)の理論体系化として構築されていったものであった。
 コミュニケーション(通報)の科学革命。「情報」概念の確立がウィーナーの中心テーマであった。呼吸や、代謝による自己組織化(秩序化)と自己秩序の維持をしつつ、充実化・発展をし、他に概念的・物理的に作用する「情報」の概念の確立。当然「情報の連結」「情報とエネルギー」「情報の量」「パターン」しかして「情報」のやりとりすなわち、通報の理論が整えられていった。自己学習する情報体の概念が確立されていった。信号の受発信(感知機関)・センサー・トランスデューサー・記号・データ・演算装置・フィードバック制御装置・(ホメオスタシス)などに関する科学・工学・技術全体系が「情報」と「通報」の概念として定式化されていったのである。
 ウィーナーの「情報」の概念はそれ自体の中に科学性(数学論理性)も物理性も機能(作用)実践性も内含したものとして定式化されていった。この点が、最大の特徴であり「情報」の概念の最も難しいところである。「科学・工学・技術・エンジニアリング」の全体系と工程を一つの概念に抽象化した、すなわち論理性・存在性・実践(機能・作用)性を内含し、概念性とエネルギー(物理)性・自己意思性をもった「一つの概念物質」としての「情報」というものが、定式化・措定・オーソライズされていったのである。ウィーナーの「研究」は、常に概念化とその具象(経験世界化)と再概念化の繰り返しの中で抽象化と抽象の高度化・充実化・階層構造化がダイナミックに遂行されるかたちを取る。帰納論理・機能主義・実証主義・数理論理といった哲学の流れの中に彼は立っているのである。帰納の極限にいたって演繹をものみこむ「一つの概念物質である」である「情報」というものを創出・造形・社会現実化(オーソライズ)させたのである。
 上記のごとき、今までにない奇怪な「概念生命体」である「情報」が措定され、それの理論体系としてのサイバネティックスが整えられ、社会現実(物象・現実界)に自己を発現させてゆくことになったのである。人間模倣機械・学習性自動機械・ロボテック・工場のオートメーション化・工場制度の情報システム化が社会現実として、ダイナミックに具体化されていったのである。(第二次産業革命)。「情報」は、物質・エネルギー・力・人間・生命・機械・社会の別なく、それらをつらぬき、それら相互間のコミュニケーション・リレーションを実現させ、より大きな秩序体系へと「連結」させ、システムアップさせていくことになるのである。それは、「情報」という概念物質・概念生命体が社会現実として、自己の体と機能を学習しつつ、自己形成・構造(組織化・システム化)してゆく姿であると言うことができる。ウィーナーの「天才」の天才たるゆえんが、ここにおいて遺憾なく自己実現されていったのである。コミュニケーション革命とは、社会革命のための中心作業であったと言うことが出来るであろう。

第三章 人間統治機械

サイバネティックスの原理は、社会諸制度をシステムとして再構築させていった。システム(機械化)は、ついには軍事・政治の世界を席巻していった。(フォン・ノイマンのゲーム理論とサイバネティックス)そして、ついには、国家社会のメカトロシステム体系化にいたり、一つの統治機械(システム)として自己を構築・オーソライズさせるにいたったのである。それは、生身の生理人間のシステム素人化・ロボット化という事体を、日常・一般のこととしていったのである。怪物のような「情報」が、一人闊歩する世の中となっていったのである。
 20世紀後半から21世紀初頭の現在。すなわち現代社会のキーワードは「情報」化である。それは、「コンピューターと通信」の文明・文化社会・グローバリゼーションと「バーチャルリアリティー」の世界として語られ生きられ、存在されているのである。文字通りのサイバネティックスワールドが展開されていると言えるだろう。現に、日本においては、電子政府化が進行し、国民は、背番号・納税番号・年金番号・口座番号などの社会システム素人としての「コードナンバー」記号体人化されている。「生身生理人」性は捨象され、抽象化され、骨取りされた記号体人(記号人・データ人・情報パターン)化されているのである。
ここで、人間統治機械とサイバネティックスが大問題として浮上することになるのである。1948年12月28日、パリの雑誌『ルモンド』にウィーナーの「サイバネティックス」に対するドミニコ教団の修道僧デュパール神父の評論がのせられていた。

「(サイバネティックス)は、人間に関する事柄、特に社会に関する事柄の―あれこれの型の情報をあつめ、人間の平均的な心理と所定のときに測定できる諸種の量と関数として、事態がどのように発展する見込みが最も大きいかを決定するような機械―国家装置、政治上の決定の全システムを網羅する様な装置―統治機械の時代が来ることを夢見ている。」

「統治の対象をなすような人間過程は、フォン・ノイマンが数学的に研究した意味でのゲームとして扱える。」

「統治機械では、国家は各段階において最大の情報を持つ競技者として定義され、国家は全ての部分的な決定の唯一の最高調整器である。これは巨大な特権であり、もしそれが科学的に得られるなら、国家はあらゆる条件の下で、人間ゲームに参加する自己以外のどんな競技者をも打ち負かすことが出来る。そのさい国家は他の競技者達に次の二つの道のいずれか一方を選ぶべきことを示す。すなわち即座の破滅か計画された協力かである。これは外部からの暴力なしにゲーム自身が生み出す帰結である。」

「人間の事態を機械的に操作することを根本的な意味で、安定・保証する二つの条件だけが数学的な意味で考えられる。一つは、競技者大衆が一人の熟練した競技者の食い物にされるに十分なほどの無知な場合であり。後者が大衆の意識を麻痺させる方法を計画することもありうる。もう一つは、大衆が余りに善意を持ち、ゲームを安定させるために、専断的な特権を持つ一人か数人の競技者に、自分の決定を託する場合である。これは冷たい数学の結論である」

「デュバール神父は、科学者に警告して世界の増進しつつある軍事的・政治的機械化がサイバネティックスの諸原理に基づいて働く巨大な超人間的装置であると指摘した。」

「機械は人々を従属器官として利用することによって、人類を征服する意外には役に立たないものだとした。」

デュペール神父の洞察は鋭く深いものであった。それは、21世紀の現在、特に国家丸ごとサイバネティックスワールドと化した日本において、神父の警告は国民一人ひとりの社会現実事態に対する態度を問うものとなっているのである。

第四章 ウィーナーの苦悩

ウィーナーは自分が作り出し、世の中に放った「情報」という「概念生命体」(概念物質)とサイバネティックス原理の社会現実化がひき起こした「事態」にたいして、自ら困惑を隠しきれないで居る。ウィーナーはプロメティウスを思い、サハロフ博士を思った。
ウィーナーは「サイバネティックス原理」の社会科を介して、逆に「社会と人間」の生(なま)・直(じか)の有り様に目を向けることになり、その「実体」の無惨さに驚いたと言うことも言える。彼は、科学・技術の人間にとっての価値について目覚めたとも言える。人間は単なる情報の一つのパターン以上のものであった。

「社会に対する機械の危険は、機械そのものからではなく、人間が機械を使ってやることからくる。」

「ノウハウより更に重要なものがある、それは「ノーホワット」である。それによって我々が自分達の目的をいかにして達成するかをだけでなく、いったい目的は何であるのかをも決定するもの。」

「悲劇の感覚とは世界は―広大で概して敬意に満ちた環境であって、そこでは我々は神々に反抗することによってのみ大業を成就することができ、しかもこの反抗はそれ相応の罰をもたらすことを避けえないという感覚である。それは危険な世界であり、そこでは自己を卑下して野心を抑えておくというかなり消極的な道以外は、何らかの安全保障の道もない。この世界は意識的に壮大の罪を犯すものばかりでなく、ただ神々と自己を取り巻く世界とを知らないと言う罪だけのものも。当然処罰される世界である。この悲劇の感覚を有する人間が、火ではなく原子分裂のようなもう一つの新たな力の出現に近づくとすれば、彼は恐れおおのきながら近づくのである。彼は墜落した天使に課せられる罪を甘受する覚悟がないなら、天子が踏み込むことを恐れる場所へは飛び込めないものである。彼はまた、自分自身の姿に似せてつくられた機械に、彼が善を選ぶか悪を選ぶかの責任をその選択の全責任を引き続き引き受けることなしに、みすみす手放すことはしないであろう。」

「人間が、機械に自己の責任の問題を委ねることは、その機械に学習能力がある場合にせよ、ない場合にせよ、自分の責任を風に委ねて、それが旋風にのって戻ってくる目にあうようなことをするに等しい。」

「機械(システム)の中の―要素として使われているものはやはり機械の要素である。」

「善と悪の選択が我々の戸をたたいている。」

「科学は信仰なしには不可能である。」

「自然は法則に従うものであると言う信仰なしにはいかなる科学もあり得ない。しかも「どんな大量の実例も、自然は法則に従うと言うことを決して証明することは出来ない。」

「純粋に因果的な世界や確率が支配する世界にもそれは等しく当てはまる。純粋に客観的な個々の観察をいくら大量に集めても確率という概念が正当であることを証明することは出来ない。言い換えれば、論理学における帰納法の法則は演繹によって樹立されることは出来ない。機能論理すなわちベーコン論理は我々が証明しうる種類のものではなく、我々が行動の土台にしうる種類のものであり、それに基づいて行動すると言うことは信仰の最高の表明である。」

冷徹で厳しい数理哲学の申し子「統治機械」を作り上げ、その「魔」を野に放ったその人が善や正義を語り、信仰と祈りを説くあるいは、古い自由と平等と博愛を口にする。そして「布教」の活動に情熱を傾ける。実に珍妙で奇妙なことである。

「人類の利益のために、人々の余暇の増大と精神生活の向上のために(機械が)利用されるようにする社会的義務をもつ。―善意の根は存在している」とウィーナーは叫ぶ。

しかしウィーナーの「サイバネティックス原理」は「善意」の力などものともしない宇宙を飲み込むほどの威力を持っていたのである。

地獄への道は、善悪で敷き詰められているのである。しかし案ずることはない。六道輪廻の只中にあって、それでも人びとはその中にある悲善劇・喜怒哀楽・四苦八苦・九の苦・十の苦を味わい・楽しみ・笑い泣き・酔って生きているのである。あるいは、細胞の中に囚われの動力機「ミトコンドリア」はそれでも一つの生命体であり、細胞と共に増殖し、繁栄を続けている。「システム素」生命体が不幸とは限らない。」
狩り蜂からアリへ、あるいはゴキブリからハイテク超高層人工タウンともいえるアリ塚を創出構築して姿をかえて生きるシロアリのようにもしかしたら、ホモサピエンスと想っている我々人間はそれと知らずに別種の生命体に進化、移行しているのかもしれない。
そこにあっては古い、ホモサピエンスの善悪・正邪ヒューマニズムなどのイデオロギーは何の役にも立たない。
ただ「うつ病」にでもなるのがせいぜいのところである。ちなみにウィーナーはうつ病に苦しんだのである。

参考文献
・人間機械論 第2版 人間の人間的な利用 
著 ノーバート・ウィーナー
 訳 鎮目恭夫 池原止戈夫

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