奪ってやる。

カラスが鳴けば「カー」と

鐘が鳴れば「ゴーン」と

そのままの音が聞こえてくる

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」

松尾芭蕉の歌もそうだ

それぞれに違った相でありながら

それぞれの境がありながら

心を通じて交じり合う

間髪入れずに一つになる

有難い「こころ」が活き活きとしている

そんな私の「こころ」を邪魔するのも また 私の「こころ」である

「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心ゆるすな」

沢庵和尚も言っておられる

そんな余計なものを奪って下さる人が

周りには大勢おられるにもかかわらず

今日も気付かず愚かな私は歩いている

思い返せば

私が「病」を理由に、志半ばで修行道場を下りることになり

その無念の思いを、師匠の元へ伝えに言った時の事である

「すみません。身体の都合上、道場を去ります。本当にすみません。」

すると師匠は私の予想を裏切る一言を突き付ける

「馬鹿者ぉぉぉぉ!!!!」

普段から厳しい師匠ではあったが、この時はさすがにその言葉に耳を疑った

労いの言葉でも掛けてもらえるだろうと甘ったれた心を見透かされたのか

「わしに謝るな!!自分自身に謝れ!!」

と大きな声で私は叱り飛ばされた

正直戸惑いを隠せなかったが、続けて師匠は諭すように

「いいか。これからが本当の修行なんじゃ。死ぬまで修行じゃ。忘れるなよ。」

真剣な眼差しで、私をギョロリと見定める。

その“眼光”は今でも忘れられない。

そして、言い表せられない師匠の優しさを纏った言葉が私の心に染み込んでくる

同時に自分で自分を苦しめていた余計なものが「スー」っと消えていく

次の瞬間、愚かな自分に気付かされる

一言でいえばこれまで「自分の都合」で修行をしてきたことに気付かされた

実家がお寺だから

僧侶になるには修行が必要だから

両親の顔を立てなければいけないから

檀家様の手前だから

だから

だから

だから

どこにも自分の人生を歩む「わたし」はいない

稚拙なわがままな「だから」の心

そんな、心で自分の心を蝕んでいた

頭では、そんなことを思いながら修行の日々を送ってはいないつもりだった

そんな「つもり」「だから」という

よけいな私の「都合」の心を師匠は一瞬にして奪って下さった

いや、ずっと奪い続けて下さっていたんだろう

そんな大事なことを

道場を下りる日に

最後の日に

気付くなんて愚か者以外なにもない

でも、そのおかげで今日の私は

愚か者として堂々と自分の道を歩ませてもらえている

素っ裸で

素足で

素の自分で

人生を感じている

何もかもが現在は日々新鮮だ

それは師匠でさえ奪い切れない「わたし」に気付かさせてくれたからだ



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