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弱者芸という戦略

「踏まれた虫は身をちぢめる。それほど賢明なのだ。これでさらに踏まれる見込みを減らすのである。道徳の言葉で言えば、謙虚。」(ニーチェ「偶像の黄昏」)

 ラランドのサーヤが、あるYOUTUBEで、コロチキのナダルに対して、彼が、最初から「かなわんなあー、お手柔らかにおねがいしますよ」とやたらペコペコと下手に出ているだけで、笑いを取っていることを批判して、ただ彼の「負け芸」の前フリに使われて、つまり「弱者芸」を見せつけられるだけで、こちらにはなにもメリットがない!!と怒っていた。

バラエティにおける負け芸・すべり芸・弱者芸
・私はとにかく大嫌いだが、TVバラエティにおいては、大衆は「イジメ」を喜ぶ傾向がある。かつてのダウンタウンや、とんねるずや、フジテレビのめちゃイケなどの、いかにも体育会系ディレクターの、しごきのようなイジメを見せて笑いを取っているような番組は、今でも多い。
・そのなかで、いじめられたり、すべらされたり、理不尽なドッキリをかけられたりしたとき、むかつくのでもなく、不機嫌な様子をみせることもなく、きちんと「芸として」、逆ギレしたり、泣いたり、苦しんでいるという演技をして見せることが、つまり弱者芸が求められているのである。
弱く見せるという権利請求の戦略
・このように、「負け芸」「すべり芸」「弱者芸」というジャンルというかスタイルが、いまTVバラエティのなかで一定の領域をしめているように思われる。これは、実はなかなかに興味深い戦略が隠されているというべきで、すなわち「権利請求」の戦略なのだ。
・それは「自分を弱く見せることで、有利な状況になることを期待する」ことである。やや甘ったれた「草食系男子」のスタンスでもあるが、つまり、人間関係の中で、過剰に他者を傷つけないようにするのと同時に、他者から過剰に傷つけられないようにするための防衛システムとして、最初から弱い位置取りをしておくということである。
・最近はやっているのは、ぐんぴいや栗谷君の「童貞芸」ビジネスだろうか。
・弱者という位置取りは、例えば、カスハラ(顧客ハラスメント)のように、かんたんにクレーマーに転換するという危険性もはらんでいる。(←下からのマウント!)
・ともあれ、こんな戦略がことさらに、粒立てて、語られてしまうようになっているのも、人間関係それ自体の緊張関係が高まっているのか、あるいは個々の人間がナイーブになっているのか、まあそのどちらかでしょうけど。
⚫︎芸人というスタンス
・そして、いうまでもなく、弱者そのものではなく、あくまで「芸」として演じているというメタなスタンスをとることによって、一種の自己防衛としているのである。
・さらに言うと、日本では、芸人が一種の「自己卑下」を基本的なスタンスとしていることも関係しているかもしれない。ヒコロヒーがNYのスタンダップコメディを見たら、出てきた演者たちはみなエラそうに、俺の芸を見て俺の話で笑えよ!という態度だったらしい。彼らには、弱者芸などというマゾヒスティックなスタイルなど想像もつかないだろう。
⚫︎「他人を見下す若者たち」
・「弱者芸」が番組構成上必要とされているのと同時に、視聴者に受け入れられている理由は、視聴者は、いじめられている芸人をバカにして低く見ることによって、せめてもの自尊感情を取り戻そうとしているのだろうか。
・「他人を見下す若者たち」によれば、最近の若者は劣等感で苦しんでいるのに、自分の価値を誇示したいので、せめて他人を低く見ることでバランスを取ろうとしているという。このような仮想的な有能感と実際の自尊感との組み合わせによる分類軸は、韓国や中国の日本への風当たりなどにも通用しそうでおもしろい。

(ブログ「見もの・読みもの日記」20060606 速水敏彦著「他人を見下す若者たち」の書評から作成)

以下、余談ですが、弱者芸の背景にあるイジメ番組について気ままに考えてみた。
イジメ番組についての考察から
⚫︎イジメ番組とは
・ここでのイジメ番組とは、放置、ヒッチハイク、落とし穴、予約なし突撃、大食い、激辛、電流ショック、ドッキリ、罰ゲームなども含まれるので、そうしてみると現在のバラエティ番組の少なくとも6割くらいは、イジメ番組に該当するのではないか。
・あるいは、過酷な試練と厳しい叱責で、メンバーを追い込んで振るい落としていくオーディション番組も含む。
⚫︎そのうち告発されるぞ
・むかしの日本テレビの電波少年などは、その後のオーム真理教の監禁殺人事件を予感させるような、長期間の監禁ものがあったし、現在のネット系での藤井健太郎の「大脱出」も、相当にひどいらしい。とにかく、遠隔地のあまり人のいない限界集落での、監禁とかイジメは、連合赤軍とか、新興宗教の山岳キャンプを想起させる。
・いくら事前に、芸人の承諾をとっているとはいえ、そうであればなんでもできるという行き過ぎた姿勢は、いずれ何年後かに、ジャニーズのように、勇気ある芸人からの告発を招くのではないかとも思ってしまう。
⚫︎聖痕(スティグマ)を持つ者たち
・ジャニーズ問題のおぞましさは、マスコミでは決して語られないが、現在のジャニーズ系の成功したスターたちは、(木村くんも櫻井くんもみんな)多分間違いなく同じ被害を受けてきたのだが、決して口外しない。成功したからこそ、それと引き換えにじっとそのトラウマを耐え忍んでいるという、なんともグロテスクな状況にある。彼らジャニーズ系スターたちはみな聖痕(スティグマ)を持つ者たちなので、だからスターなのかもしれない。

⚫︎イジメ番組の生産と受容
・イジメ番組は、基本的には私がへどがでるほど嫌いな「体育会系」嗜虐趣味が横行しているのだが、なぜそういうイジメ番組が作られ続けるのであろうか。なぜそれが飽きもせずに流行し大衆に受容されるのであろうか。
・制作的観点からいうと、番組制作のブラック企業的環境の雰囲気が、そのまま番組それ自体に反映されて、意図せずにドキュメンタリーになっているのか。あるいは上からの理不尽な要求を、下っ端のディレクターがさらに演者の芸人にぶつけるという、理不尽の転移、下請け化なのか。
・受容的観点からいうと、人は他人が苦しむのを見て喜び、じぶんがそこからとりあえず無縁であることに感謝して楽しむのだろうか。なんと言う悪趣味。
⚫︎イジメ・シゴキの意味そして通過儀礼による一体感の醸成
・それらは、全体的に、競争社会で勝ち抜くことの象徴ともなっているのだろうか。あるいは、新入社員に過酷な自衛隊体験をさせるような、一種の通過儀礼のメタファーとなっているのだろうか。
・過酷な体験を経たのちに生まれる被害者同士の一体感(ジャニーズもそういうところがあるのかも)、そしてうしろめたいイジメや理不尽なシゴキを下級生に実行するという共犯者同士としてもまた、それがいっそう一体感を強化していく。イジメの連鎖が途切れずに続いて行くことになる。
・それが極端になると、一緒に殺人という罪を犯させることによって、もう仲間から抜け出せないようにするというオーム真理教の手口にまでなるのだが、とにかく体育会系シゴキ・イジメとはそういうシステムなのだ。そのシステムが、多かれ少なかれ、社会に蔓延していて、それがバラエティ番組にも表出するのではないだろうか。
・通過儀礼ということでいえば、某大手広告代理店は、新入社員に、かつて裸踊りはおろか、ここに書くのもためらわれるような、さらなるおぞましい儀式を課していたと、聞いたことがある。もしそれが事実なら、彼らの、傲岸不遜な態度と根拠のない断言にともなう、一種異様な自信と一体感は、そんな恥ずかしい通過儀礼を経てきたものとしての強さから生まれてきたのだろうか。私は彼らがもちろん大嫌いだし、それを甘んじて受容したということ自体で軽蔑しているが。
 


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