観光地の偽物たちと、写真の撮り方 Xデザイン学校校外研修・京都#2#3の3

京都のフィールドワークとKA法講座、全4日のうち2、3日目のリフレクション。
まだ書くんかい。

週末の情報量が多すぎたのか、ふとした瞬間にいろんなことを考える。
昨日に続き、むしろ、ますます講座の内容とは関係がない。
ならリフレクションじゃないけど、まいっか。

期待に寄せる

全国の観光地には、偽物が溢れている。
例えば、沖縄の国際通りに、沖縄っぽいのに絶対に沖縄じゃないものが売っているように。

日本に京都以上の観光地はない。
京都は、その意味でも“本場“だ。
むしろそのダサさが、修学旅行ノスタルジーの象徴になるくらい。

このウソ地元感を、改めて考えてみた。

一番わかりやすいのは、インバウンド向けの忍者体験や、着物体験。
日本人から見ると、なんであんなにデフォルメするのか苦笑する。
日本にない謎要素まで加わっている。

それは当たり前だが、お客さんが喜ぶからだ。
わざわざ外国に来ても、知らず知らず、自国の価値観を反映している。
映画やアニメで見たような、わかりやすいビジュアルの再現を求める。

つまり、「すでに知っているもの」を体験したい。
日本人も世界各地で同じことをしているのだろう。

以前、子供の貧困を取材した時に、「貧困っぽくないエピソードを喋らないようにしている」と言う子がたくさんいた。

スマホを持っていると知られたら「お前は貧困じゃない」と叩かれる。
ゲームを持っていると知られたら「お前は貧困じゃない」と叩かれる。
見ず知らずの人たちに。

これ、期待なのだ。
貧困とは「飢えて路上の草を食べ、服は1枚しかなく、雨漏りする家に住んでいる」でなければならない。
「私が認めたかわいそう」に合致しているからこそ、支援するわけで。

当時よく、仲良くなった子たちに「なんでメディアは、食べ物がなくてティシュを食べた子、みたいなわかりやすく同情される例ばっかり取り上げるんですか」と恨み言を言われた。

そのせいで、私たちはありのままでいられない、世間の期待する姿を演じなければいけない、と。

観光地の偽物たちは、「そうあって欲しい」と願った部外者のイメージを汲み取った、過剰適応なんだろうな。

「インスタ映えするところに行って、同じ構図の写真を撮りたい」も同じ。
見たいと決めているものを見にいく。
いい悪いではなくて、人間はそういうものなのだろう。

「京都人は嫌味がきつい」とか「プライドが高い」とか、本当の部分もあるのだろうけれど、Twitterのネタやケンミンショーのように、その方が面白いから流通している面もあるだろう。

「一見さんお断り」と「ラーメンと餃子」の間にも、本当はもっといろんな「京都らしさ」があるんだろうな。

私はなにを見ているのか

フィールドワークをしていた時に、一緒に回った方と私で、写真の撮り方が全然違った。

その方は「状況」を撮ろうとしていた。
人が小さくて、全体像がわかるような写真。
調査の趣旨を考えたら、すこぶる当たり前なのだが。

一方の私は、人ばかり撮っていた。
真ん中に、素敵な笑顔でどーん。

KAカードを書くときに、ズレに気づいた。
カードに書くファクトそのものがわかる写真でないといけないのに、私のは記事の写真なのだ。「〇〇の話をしてくれた※※さん」な写真。
習慣とは本当に恐ろしい。全くの無意識だった。

今日、noteでバズっていた写真の撮り方記事を読んで、ハッとした。
写真には、私がなにに視線をむけ、なにを考えたかが赤裸々に記録される。
付け焼き刃で構図を持ち出しても、誰かの真似をしても。
「目の前にあるものが、なにも見えていない」ことすら、記録される。

記者は自分で写真を撮ることが多い。
カメラマンと一緒に行くのは余程の時だけだ。

ずーーーーーっと、私は写真が下手だった。
なぜかいつも傾いているし、変なふうに切れていたり、変なものが写り込んでいる。
センスがないと早々に諦めて「寄って撮る」だけを心がけた。

センスで片付けていたけれど、実は主題がわからないままシャッターを押していたんじゃないだろうか。なにを撮るべきか、なにを面白いと思ったのか。心と眼がつながっていなかったんじゃないか。

ただ、一つだけ得意なことがあった。
人の笑顔を撮ること。
この直後にいい顔がくると、ある時から直感的にわかるようになった。
撮れさえすれば、あとはトリミングで適当に整える。

さらに考えると、私は、人やその心にズームを寄せて取材をしていたのかもしれない。
状況とか全体を見る目は、甘かった気がする。

ということが、急にぶわーっとつながって鳥肌がたった。

他者の視点を学ぶことは、自分を問い直すこと。
まさに!

で、明日が最後の講座。
濃いな。

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