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【現代小説】金曜日の息子へ|第19話 遠くなる距離

そんな日々の中で、時折二人はこれからの夢を語り合った。ある日、ジュリアが地元の情報誌を手に取り、興奮気味に俺に声をかけてきた。

「ねえ、こちらの記事を見て!チノヒルズの近くにはワイナリーやオーガニックファームがたくさんあるって。週末、いくつか訪れてみるのはどうかしら?」

俺はその提案に目を輝かせて頷いた。「それは面白そうだね。ワインのテイスティングや、新鮮な野菜を手に入れることができるなら、絶対に行くべきだ。」

ジュリアが次の場所を提案する中、俺の心の中では他の想いが渦巻いていた。俺は反発しながらも実家の酒蔵を継ぐことをどこかで考えていたのかもしれない。そもそも、ワインや酒に関する知識は、ただの趣味以上のものだった。ワインの製造方法やテイスティングの技法は、日本の酒造りとはまた違った魅力がある。その知識を学び、いつか家業に役立てることができればとどこかで考えていたように思う。

ジュリアが楽しそうに次のスポットを探す中、俺はしばらく沈黙して考え込んでいた。その後、ジュリアに胸の内を打ち明けることに決めた。

「実は、俺、家が酒蔵を経営していてね。将来、その後を継ぐかもしれない。だから、ワインの製造やテイスティングの技法、それらを学びたいんだ。」

ジュリアは少し驚いた顔をしたが、すぐに温かい笑顔で応えた。「それなら、ますますこの旅は意味があるわね。一緒にたくさん学んで、日本の酒蔵にも役立てる方法を見つけよう。」

そう言って、二人は再びワイナリー探しの旅を楽しむことになった。しかし、今度はただの観光以上の意味を持つ、真剣な学びの旅となったのだ。

翌週末、俺たちは車を走らせ、美しい風景の中をドライブしながら、地元のワイナリーを訪れた。ブドウ畑を眺めながら、太陽の下で熟成されたワインをテイスティングするのは、とても特別な体験だった。ジュリアは白ワインを、俺は赤ワインを選び、その味わいに酔いしれた。

その後、地元のオーガニックファームを訪れ、新鮮な野菜やフルーツを手に入れた。ジュリアはその食材を使って、夜のディナーを作ってくれることになった。彼女の料理技術と新鮮な食材が合わさり、その夜のディナーは忘れられないものとなった。

「ジュリア、君の料理は本当に最高だよ。これからも地元の素晴らしい場所を探索して、こんな特別な夜をもっと増やしていこう」と俺は感謝の気持ちを伝えた。

ジュリアはにっこりと微笑み、「もちろん。これからの日々は、新しい発見と喜びに満ちていくと思うわ」と答えた。

そして、チノヒルズでの新しい生活は、二人にとっての冒険の舞台となっていった。その町にはまだ知らない場所や驚きがたくさんあり、それを二人で共有することで、日々がさらに豊かになっていった。

新しい土地での生活は、時には困難を伴うこともあったが、そんな時でもジュリアと共に乗り越えてきた。そして、それぞれの日々が、二人の間の絆をより深く、強くしていった。

チノヒルズは、二人にとっての新しいホームとなり、未来に向かっての冒険の舞台となっていくはずだった…



俺は自分の心を支えてくれた音楽業界の扉を叩いた。フェスの運営、そんな響きの良い仕事に魅かれて飛び込んだが、その裏側は意外にも地味で緻密な仕事が多かった。

表舞台に立つアーティストたちの背後には、膨大な数の地域住民への説明会や有力者への交渉が繰り返されていた。ステージの下、裏側での仕事は一切の華やかさを欠いていた。しかし、それが俺の選んだ道。そう、フェスを成功させるための地味で不可欠な作業だったのだ。

全米を飛び回る日々。空の色がどんどんと褪せていき、時間とともに場所の感覚までもが麻痺していった。毎日が移動と打ち合わせの繰り返し。夜はホテルの無機質な部屋で、遠く離れたジュリアのことを思いながら、疲れ果てて眠りにつく。

家に帰るのは年の半分くらい。その短い間に家族との時間を精一杯楽しむ。しかし、その間も仕事のことが頭から離れない。それでも、ジュリアはいつも笑顔で俺を迎えてくれた。彼女のその笑顔が、遠く離れた場所での仕事の疲れを和らげてくれた。

そして、ある日、俺たちの間に新しい命が加わることとなった。娘が生まれたのだ。寂しさを紛らわすために求め合ったのか、それとも新しい家族を築くための自然な流れだったのか。しかし、その結果として得られた娘は、俺たちの生活に新しい色を加えてくれた。

娘の誕生は、仕事の厳しさや過酷さを感じる度に、何のために働いているのかを再確認させてくれる。家族のため、娘の未来のために。そして、ジュリアと共に新しい家族の形を築いていく中で、俺は再び音楽業界での役割と目的を見つけ出した。

フェスの運営は外から見るよりも遥かに困難だったが、それでも家族の存在が俺を支えてくれていた。そして、その家族と共に、未来に向かって歩んでいく。そんな決意を新たにしたのだった。

それからというもの俺の世界は、音楽と家族、その二つの軸で回っていた。しかし、どんどんと業界での役割が大きくなるにつれ、そのバランスは崩れていった。週末だけの帰宅。それが俺の新しい日常となってしまった。

娘がもう少し大きければ、何とかなるのかもしれない。そう思っていたのは、あくまで俺の都合での希望的観測だった。子育ての最も必要な時期、最も妻のサポートをするべき時期、ジュリアはずっと一人で彼女の成長を支えていた。

ジュリアの実家は遠くスペイン。美しい風景と熱い情熱に溢れる国。一方、俺の両親は日本に住んでいた。お互いの文化の違い、そしてアメリカという土地に対する懸念から、家族としての絆を深めるための橋渡しの時間が必要だった。それを計画していたが、仕事の忙しさを理由に、次から次へと延期していた。

ある日、帰宅すると家の中の雰囲気が異なっていた。ジュリアの瞳には以前の輝きがなく、何かを訴えるような影が浮かんでいた。それでも、俺は忙しさを盾にそのサインを見逃していた。

そして、その後の数週間で彼女の様子は一段と暗くなっていった。育児の疲れや、日々の生活の中での孤独。そういったものが積み重なっていったのだろう。そしてある日、彼女と娘が俺の元から去っていった。

帰宅すると、家には彼女たちの気配がなく、リビングのテーブルの上に手紙が置かれていた。

「長い間、私たちは一緒にいるはずだった。でも、心の距離がどんどん遠くなっていった。私は娘とともに新しい生活を始めることにした。」

その言葉を目にすると、心が裂けるような痛みが走った。彼女たちをどれだけ大切に思っていたのか、その全てを失って初めて気がついた。疲れた心に、後悔の念と自分自身への怒りが込み上げてきた。

時間が解決してくれるとは限らない。大切なものを失う前に、気がつくことの大切さを、この経験を通して痛感した。そして、ジュリアと娘の幸せを願うとともに、自分の人生を見つめ直すこととなった。



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