トンガリネズミ

 最近よく自転車がパンクするのは、トンガリネズミのせいなのだそう。

 「最近よく自転車がパンクするんです」

「そりゃあれだな、トンガリネズミだ」
 
糸山先生は銀縁の眼鏡の位置を右手で正し、左手に持っていたマグカップを置いた。朝日に混じるコーヒーのにおい。

「トンガリネズミ?」

「そう。トンガリネズミ。最近じゃ珍しいかな。タイヤチューブの中に寄生し、酸素が足りなくなるとチューブを食い破る。聞いたことないか」

「ないですね」

「数十年前までよくいたんだけど。まあ気長に付き合ってやりなさい。連中も悪いやつではない」

「普通に不便なんですけど」

「まそう言わず。あ、ちょっと待ってて」

 糸山先生はコーヒーをちょっとすすってから、スリッパをパタパタいわせて準備室の扉の奥に消えた。

  教室にひとりになると、ろ過装置とか酸素が出てくる管の音がうるさく聞こえる。手近な水槽を爪弾けば、小魚の群れがさっと翻る。名前は知らない。生物部の小野というひとが捕まえてきた群れだ。捕まえるが世話をしないことで有名な小野だ。罪深い。どうせまもなく埋めるんだろうなと思っていると、ついつい餌やりが過剰になりがちで、無数の鰭が水面を叩く。朝っぱらから手が魚くさい。

「これこれ」

 糸山先生が小さな木箱を抱え戻って来る。生物室は木ばかりだ。準備室の扉、書架、四角い椅子、踏めば鳴る床板。この高校は物理科や化学科は小綺麗なのに生物科になるとどうも薄汚い。

「ほら置いて見な」

 先生の水気の無い、それでいて柔らかさを保っている手がそっと木箱を机の上に横たえた。長机の上にことり、と優しい音が鳴る。
 箱は一つの面がガラス張りになっていて、反射を避けるように正面から覗き込むと、串刺しのものがいくつかいる。濃い灰色で、大きさは指の先くらい。大変小さい。細くとがった顔からしても昆虫の類にみまちがえそうだが、違う。ピンと伸ばされた脚は四本。

トンガリネズミだ。

「小っさ」

「こいつらは昔、僕が標本にしたんだ」

 トンガリネズミは小さくて鼻がとがってるということ以外ただの詰まらないネズミで、おまけに最近の僕の仇にあたるものだから、観察は大して長続きしない。けどすぐに突き返すのも何なのでしばらく眺めていた。眺めていてもなにも思えなかった。そのうちガラスの反射を眺め始めたころ、

「まあそういうことだ」

 糸山先生が曖昧に言葉を発し、箱を抱えスリッパを鳴らしつつ戻っていく。準備室の扉が開いて、おやっと思う。見切れた椅子と、スカートと上履き。誰かが来ているらしい。進路相談かも知れないとおもう。

  そういうわけで最近のパンクはトンガリネズミのせいなのだそう。到底許すつもりはなく、きたる放課後、派手にパンクしたタイヤを前に僕のこころは決まった。

 もはや慣れた作業だった。バルブを開いて空気を抜く。細長いため息のように空気が抜ける。つるつると黒いチューブは弾力がない。取り出した腸みたいだ。
 薄暗いガレージは埃まみれで、至る所オイルにべたつく。ガソリンや溶剤のにおいが鼻につく。いつもなら頓着しない入口の鍵をいじり、空の駐車スペースに横たえた自転車を眺めてみたりする。気の抜けたタイヤは不気味な触り心地がした。
 チューブを水の張ったバケツに突っ込み、パンクの位置を探る。立ち上る泡はトンガリネズミの穴を出て、弾ける。普段ならふさぐところだが、塞がない。空気を押し出す。
 全部なくなったら息はできまい。さいごの一粒まで泡がこわれるのを眺めた。

  

 そのうちまた餌やり当番が回ってきて、案の定小魚を埋めることとなった。糸山先生の姿は見えない。話したいような気がしたのだが。普段ならコーヒー片手にスリッパを鳴らしながら近寄って来るが、今朝は準備室の扉さえも閉ざされている。仕方なく白く濁った目の魚と視線を交わしつつ、窓を開けて校舎裏にでた。
 別に僕が殺したわけではないのに、手の上の冷たさに後ろめたくなる。小野の奴め。僕に肩代わりさせやがって。誰にも見られたくないと思う。思いつつ、死んだ魚よりは温かい土を掘り返していた時だった。

 ざっ、と地面をする足音が響いた。しゃがんだ格好で振り返ると、上履きにスカート。顔をあげると、知らない子がそこに立っていた。

「糸山先生知らない?」

 背後の生物教室の窓に目をやりつつ訊いてくる。

「知らないです」

 答えながら、自然と目の前の穴を隠すように姿勢を変えている自分に気づく。

 ふうん、と興味なさげな返事をして、教室の中から君が見えたものだから、と言う。

「それ死んでるんだ」

「はい。死んでます」

「君がやったの」

「違いますけど」
 ふうん。
 またそう息をもらして、値踏みする目で僕を見た。
「君がやったんじゃないのに君が埋めてあげるんだね。優しいひとだ」
 そういうと彼女はこっちに歩み寄って、穴の底に放った魚の上に土をかぶせた。
「さて、糸山先生はどこだろう」
 進路相談、なのだろうか。

 また一人になった。水槽の中に差し込まれた管から、数えきれない泡が嵐のように立ち上っている。その横で、岩のような色の魚が、まるで息ができないとでも言いたいのか、口をパクパクさせている。
 なんか嫌な気分だ。僕の罪を突き付けられたような、その罪はどこの誰も持っているような凡庸な罪で、それでいて自分がとてもみじめな気がした。
 水っぽい匂いが余計憂鬱で、気づいたらまた外にでていた。上履きのまんま。駐輪場は昨晩の雨にしめっている。あの子はまだ糸山先生を探しているのだろう。小野は土の下で魚を飼っているのだろう。糸山先生は僕の知らないとこにいるのだろう。

 まったく、後悔も憂鬱もくだらないことだ。

 なんだかどうでもよくなってきて、遠くにでも行きたい。

 そう思い、自転車に跨って、漕ぎだした矢先、

 パァアアアンン。

 どうも生きていたらしい。良かった、ふざけんな。

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