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小説 月に背いて 10

 それから私は毎日同じ夢を見るようになった。眠っている佐田先生の首に両手をかけて殺そうとするのだ。あまりにも同じ夢ばかり見るうえに、現実と区別がつかないほど鮮明な映像なので、怖くて眠れなくなった。このままでは本当に殺してしまうのではないかと震えたが、先生には勿論のこと、誰にも相談は出来なかった。もうどうしたらいいのかわからない。

 井川くんとの約束の日が迫っていたが、もしかしたら彼は来ないかもしれない。それはそれでもう仕方がない。私もどんな顔をして会えばいいのかわからなかったので、神社へ行くのはやめようと連絡するつもりでいたけれど、結局出来なかった。

 当日、早番の勤務が終わりスマートフォンを見ると、18時に家に迎えにいくというラインが入っていた。よく考えてみたらこんな時間に神社に行ったところで日は暮れているし社務所も閉まっているだろう。井川くんが何を考えているのかわからなくて不安になったが、思ったことをそのまま口に出す人だから、あまり心配しなくてもいいのかもしれない。

 井川くんの車の助手席に乗り込むと、先週会った時と全く変わらない態度だったのでほっとした。仕事帰りでスーツを着ている彼は、車で片道40分かかる大きな神社へ行こうと言い出し、穏やかな表情で運転している。私の仕事は重労働だからしっかり食べて寝ないと駄目だと何度も言う。疲弊している私を気遣ってくれているらしい。

 30分ほど国道を走ったところで渋滞に巻き込まれた。交通事故があったのかパトカーが一台停まっていて、車線規制が行われている。テールランプの列をぼんやりと眺めながら、「私と一緒にいると井川くんも事故に巻き込まれちゃうかもしれないよ」と言った。

「そういう事言うなよ」

 怒気を帯びた声が車内に響いた。驚いて横に目を向けると、彼は右手でハンドルを持ちながら前方をじっと睨んでいる。そのあとは何も話そうとしなかった。私も何も言わなかった。

 19時過ぎに神社の駐車場に着いた。とうに日は落ちて周囲は暗闇に包まれている。駐車場に全く人影はなく、2台ほど車が停まっているだけだった。幸い神社の境内には入ることが出来たので、私達は暗闇のなか鳥居をくぐり、参道を歩いて拝殿に向かった。大きい神社なので拝殿までは随分距離がある。井川くんはスマートフォンのライトで前方を照らしながら私の前をゆっくり歩いた。

「足元に気をつけろよ」

 彼の背中を見つめながら、どうしてわざわざこんな事に付き合ってくれるのだろうと考える。考えれば考えるほど、自分がどうしようもなく情けない人間に思えて悲しくなった。

 拝殿についた。私達は賽銭箱に小銭を入れて柏手を打った。

「これでもう大丈夫だろう。交通安全のお守りは買えなくて残念だけどな」

 そう言うと、彼は私に目を向けてとても嬉しそうに笑った。その笑顔で胸がいっぱいになった。

「井川くん、寒いなか本当にありがとう」

 涙が頬を伝って落ちた。自分でも何故泣いているのかわからなかった。

「私、最近すごく怖い夢を見るの」
「怖い夢?」
「佐田先生の首をしめて殺そうとする夢を見るの。このままじゃあ本当に殺してしまうんじゃないかと思って、死ぬほど怖い」

 涙が止めどなく溢れてきて、喉の奥が苦しい。それでも私はしゃくりあげながら必死に話した。

「気持ち悪いことを言って本当にごめん。でも、もうどうしたらいいのかわからない。こんなこと誰にも相談出来ない」

 井川くんはしばらく黙って私を見ていた。そして苦しそうな表情を浮かべながら遠くの景色に目を向けた。参道の両脇には大きな杉の木が並んでいて、その上に小さな三日月と沢山の星が輝いていた。 

「じゃあ会うのをやめればいいだけだろう」

 冷たく言い放った彼は、月を見上げて左手をゆっくりとコートのポケットにしまった。梟の鳴いている声がかすかに聞こえていた。

「俺がとやかく言える立場じゃないことは承知の上で言うけど、椎名は真面目過ぎるんだよ。佐田先生の奥さん、亡くなったばかりなんだろう?そういう罪悪感が、変な事を引き起こしてるだけだと俺は思う。それか、相手の弱さに引っ張られてるだけだと思う。心が弱くなると魔が差すんだよきっと。椎名が色んな事を割り切れなくて苦しいなら、一緒にいて自分が自分でいられなくなるような相手なら、……」

 険しい目で遠くの月を見上げたまま、彼は眉根を寄せた。

「今は距離を置いたほうがいいと俺は思う」

 私は瞬きもせずにじっと井川くんの横顔を見つめていた。すると彼も私を見た。

「今は上手くいかなくても、時間が解決することだってあるだろうし、辛いとは思うけど一度冷静に考えてみろよ。椎名なら出来るだろう」

 その目に迷いは全くなかった。心の奥に秘めていた私の思いを彼がそのまま言ったので、悲しいというよりもむしろ少しほっとするような感覚があった。

 井川くんは私に背を向けて、振り向く気配も見せずに駐車場に向かって足早に歩き出した。その後ろを少しだけ離れて歩く。駐車場に着くと、彼は突然明るい声で言った。
「腹減ったからなんか食べて帰ろうぜ。とりあえずうまいもんをたくさん食えば元気になるよ。これからは楽しい事だけに目を向けろよ。そうすれば大丈夫だろ」

 その言い方は、上辺だけでなく本当にそう思っていることがはっきりと伝わる力強さがあった。私が黙っていると、「行こうぜ」と言って笑った。私達は車に乗り込んだ。

「そういえばさ、椎名の家の隣は神社じゃん。毎日お参りすればいいんじゃない」
「そうだね」
「あんまり思いつめるなよ。大丈夫だから」

 本当に不思議なのだけど、井川くんがそう言うとなぜか全てが大丈夫なように思える。

 国道沿いのコンビニエンスストアに寄って温かいコーヒーを買い、それを飲みながら帰路についた。私の手の中にある小さな缶コーヒーはいつまでも温かかった。

 近くのファミリーレストランで食事をしたあと、21時過ぎに家に着いた。門の前に車を停めて彼は言った。

「また連絡するよ。あのさ、何度も言うけどさあ、楽しいことだけ考えろよ」
「どうしたら気持ちを強く持てるのかな」
「ちゃんとメシ食って寝て、走って筋トレすればいいんじゃない?」と井川くんは真面目な顔をして言った。

「筋トレ?」
 思わず声を出して笑っていた。久しぶりに全てを忘れて心から笑ったような気がした。

 すると彼は左手を伸ばして私の頭にそっと触れた。そして優しく髪を撫でた。

「あとはあんまり一人で抱え込まない方がいいと思う」

 彼の顔を見ることが出来なくてうつむいた。この手を取れば楽になれるのになあと思う。それさえ出来れば、心の平穏を取り戻せることがわかっているのに、どうして出来ないのだろう。

 井川くんは目を伏せてゆっくりと手を放した。そしてその手をハンドルへ置き、フロントガラスへ視線を向けながらぐっと握りしめた。私はその仕草をただぼんやりと眺めていた。
「おやすみ」

 私も「おやすみ」と言って車を降りた。車は勢いよく前進して暗闇に消えていった。運転席の彼は遠くを見つめていて、どこか私の知らないところへ行ってしまった気がした。缶コーヒーの温もりを思い出しながら、かじかんだ両手の拳を固く握りしめていた。 








 


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