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小説 月に背いて 3

 春が過ぎて、太陽が照りつける暑い夏が訪れた。七月の上旬、恭子から一通のラインが届いた。佐田先生の奥さんが亡くなったから、告別式に一緒に行かないかというものだった。恭子は私と美希のほかに、井川くんにも連絡したようだ。しかし、葬儀は家族葬として親族だけで静かにおこなわれた。私は恭子に、先生に宜しく伝えてねとだけラインした。

 九月の終わり、私と美希は恭子の新居祝いのため彼女の家に訪れた。その家は新築の一戸建てだった。

 ドアチャイムを押すと、黒いTシャツに白いジーンズを履いた恭子が出てきた。穏やかな笑みを浮かべる彼女に、私と美希は二人で購入した新居祝いを渡した。ウエッジウッドのペアのティーカップだ。リビングに通された私達は二人掛けのソファに腰掛けた。南側の大きな窓からレースカーテン越しに柔らかな光が差し込み、部屋中に明るい空気が漂っていた。叔母の家とは違う、生活感のない新築の匂いを感じながら、希望に満ちた新生活とはこういうものなのだろうと思った。

 恭子がアイスコーヒーとケーキを出してくれた。私達はそれを食べながら三人でおしゃべりをした。結婚式の写真を見たりした。

「それにしても広くて素敵な家だね。いいなあ」
 美希は羨望の眼差しを恭子に向けた。
「35年ローンだよ。しかも夫婦共有名義なの」
「25歳でローン生活かあ」と私は言った。

「旦那はサラリーマンだけど、私は教師だからさ。連帯債務じゃないと銀行の審査が通らなかったんだよね」

 このあたりは地方で土地も安く、結婚や出産を期に一戸建ての家を購入する夫婦が多かった。またはどちらかの実家の敷地内に家を建てる夫婦もいた。

「葉月は彼氏出来た?」と恭子は言った。
「全然。職場が女ばっかりで出会いがないからね」
「医者とか、患者さんと何かあったりしないの?」
「そんなのなかなかないって」
「葉月はさあ、冷めてるんだよ。本当に彼氏欲しいって思ってるの?」
美希はからかうように言った。
「思ってるって。誰かいい人がいたら紹介してよ」

 私は一年間付き合った男とニ年前に別れたきり、恋人はいなかった。でも特別寂しいとは思わなかった。恭子のように、五年も交際して結婚するというのはどんな気持ちなのか全く想像が出来ない。

「そういえば、佐田先生の奥さん亡くなったんだね」と私は言った。

「そうそう、びっくりしたね。まだ若いんでしょう?お気の毒にね。先生は大丈夫?落ち込んでない?」と美希は言った。

 恭子は頬杖をつきながらテーブルに目を落とし、考え込むような表情をした。

「まあ無理はしてるんだろうなとは思う。すごく疲れてるみたいだから。でもあの人はあんまり感情を表に出さないじゃない?だから、そこまで落ち込んでるようには見えないけど」

「私達の担任してる時から、ロボットみたいだったよね」と美希は笑った。

「ねえ葉月」
 恭子は私の目をまっすぐ見つめて言った。

「葉月は高校生のとき、佐田先生のことが好きだったんじゃないの?」
 私は驚いて鼓動が激しくなった。

「なんでそう思うの?」
「だって、時々化学準備室に行って佐田先生と二人で話してなかった?よくあの先生と会話が続くなあって思ってたもの。私は今一緒に働いてるから、余計にそう思う。あの学校で一緒に働きだして二年になるけど、いまだに佐田先生って何を考えてるのかわからない」

「ああ、でも葉月と佐田先生ってなんとなく雰囲気似てるよね」と美希は言った。

 私は心の中の動揺を見抜かれないように静かに深呼吸をした。別に今さら隠す必要もないのに、本音を打ち明ける気持ちにはどうしてもなれなかった。

「あの頃は先生と話してると落ち着いたの。どうしてなのか自分でもわからない。好きだったのかもしれないね」

 恭子は再び視線を手元に落としアイスコーヒーをひと口飲んだ。

「先週佐田先生が突然、椎名は元気かって私に聞いてきたの。私びっくりして。ライン交換したのなら連絡してみればいいじゃないですかって言ったら、出来るわけないだろうって言われたけど」

「え?」私は驚いて大きな声を出した。

「へえー、先生そんな事言うんだ。葉月のことが気になるんじゃないの?じゃあさ葉月、大丈夫ですかって連絡してみればいいじゃん」と美希は笑いながら言った。

「やめなよ」
恭子が諭すような口調で美希に言った。

「ねえ?葉月」
恭子は心配そうな目つきで私を見た。その目には何かを恐れているような緊張感も含まれていた。

「そうだね。奥さんが亡くなったばかりで大変な時に連絡なんて出来ないよ」

 テーブルの上に置かれた恭子の指先を見つめた。その爪はマニキュアこそ塗られていないものの、綺麗に磨かれていてとても美しかった。私は職業柄マニキュアを塗るどころか爪を伸ばすことも出来ず、手荒れも酷いものだった。私も恋をしたら指先まで綺麗に整えたくなったりするのだろうか。そんな事を考えながらアイスコーヒーをひと口飲んだ。口の中が乾いて、不気味なくらい味がしなかった。

  


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