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小説 弦月5

 介護老人保健施設「ほほえみ」の就職の面接はあっさりと受かった。直子の口添えもあったし、何より慢性的に人手不足の職場のため、未経験者であってもくるものは拒まずといった雰囲気だった。

 実際に働いてみると、確かに重労働だし、生身の人間を相手にしているぶん今までより遥かに責任のある仕事だった。自分の少しのミスがそのまま利用者に影響する。人の命を、尊厳を、一時的にとはいえ預かっているという確かな感覚があった。でも思っていたよりもずっと楽しかった。仕事に慣れていくと、次第にやりがいを感じるようになった。何より、こんなに他人からありがとうと言われるようになるなんて、今まで想像すらしたことがなかった。

 同僚は幅広い年齢の人がいたが、直子の言う通りいい人ばかりだった。もちろん、言葉がきつかったり、噂話が好きだったり、何かとサボろうとしたり、様々な個性が多少はあったが、それでも基本的にはみんな世話好きで明るい性格だった。

 私が就職して一番びっくりしたことは、私の好きな男がそこで働いていたことだった。これは本当に驚いた。男は鈴木さんといって、その施設の主任看護師だった。

 私が時々飲みに行く小料理屋に鈴木さんもよく一人で来ていたのだ。その小料理屋はマンションの近くの裏通りにひっそりと佇んでおり、マスターの自宅の一部を店舗にしたようだった。カウンターとテーブル席がひとつしかないこぢんまりとした店だったが、ママの作る料理はどれも美味しく、家庭的な雰囲気に包まれいつも常連の客で賑わっていた。

 今からちょうど一年前の春、友人に誘われて初めてその小料理屋へ行ったときに彼はいた。カウンターの一番奥の席でひとりでウイスキーを飲みながら、ママが漬けたぬか漬けを食べていた。マスターから、こいつは小中学校の時の同級生なんだと紹介された。同級生ということは40過ぎくらいだろうけど、彼はその時Tシャツにジャージという適当な格好をしていたせいか、マスターよりずいぶんと若く見えた。髪に白髪も混ざっていなかった。痩せているように思えたが、良くみると肩幅があり胸板も厚く、年齢のわりにお腹まわりも締まっていたので、何かスポーツでもやっている人だろうかと思った。

 はじめて会った時から、なんだか懐かしい雰囲気のひとだなと思った。その時は軽く挨拶と自己紹介をしただけで、特に会話らしい会話もしなかった。ウイスキーと漬け物は合うのだろうかと思ったが、あえて聞くことはしなかった。

 一ヶ月くらいして、再び店で彼に会った。その時は少しだけお互いの事について話をした。鈴木さんは老人施設で働いていると言っていた。直子の職場に興味を引かれたのもそれが原因だった。彼は子供の頃から読書が好きで、よく小説を読むと言っていた。体力作りのため週に一度はスポーツジムに通い、その帰りにここに来ることが多いと言っていた。

 鈴木さんはどちらかというと控えめな人で、話す言葉をいつも選んでいるような印象を受けた。いかにも落ち着いた大人の男性という雰囲気だった。しかしそんな風でも眼光は鋭く、怒らせたらきっと怖いのだろうなと感じていた。また、酒を飲んで酔っていても、女性を上から下まで見るような仕草が全く無いので、きっと分別のつく人なのだろうなと思っていた。そんな人だから私はつい会うたびに散々くだらない話をした。だから何なのだというような、オチのない本当にくだらない話を。しかし彼は、私の話をいつも優しい目できいてくれた。

 この人はわかってくれている。そう感じる何かが彼の中にはあった。私はその何かに引き寄せられるように彼に惹かれていった。鈴木さんの手から操り糸が出ていて、まるで自分が操り人形にでもなってしまったように、鈴木さんが動くと私も一緒に引っ張られるような感覚さえした。実際にそんな糸は目には見えないのだけれど。

 きっと、私はこの男のことが好きなのだろう。私は彼と出会ってすぐに、おぼろげながらもそんな感覚を自覚しはじめていた。

 彼は既婚者だった。どこに住んでいるのか、奥さんはどんな人なのか、子供はいるのか、ききたいことはたくさんあったけれどきけなかった。これ以上彼と会ったら、相当しんどい事になることがわかっていた。これ以上彼の事を知ってしまったら、もっと好きになってもっと会いたくなるだろう。昔の自分みたいに。そうしたら心の嵐が過ぎ去るまではもうもとの自分には戻れないだろう。だからそうなる前に、嵐がやってくる前に、この感情を自分でどうにか始末するよりほかなかった。

 私は彼と店で会って、「おやすみなさい」と言って別れるたびに、もう二度とここにはこない事を誓い、心の中で彼に対して永遠のさよならを告げた。でもどうしてもその誓いが3週間以上続くことはなかった。会えるとつい嬉しくなってしまって、でも同時に苦しくて、会えなければ、それはそれでもっと苦しかった。

 特に連絡先も交換していないので、私が店に行かなければいいだけの話だ。もしくは、彼が店にこなくなればいいのだ。私はすっかり途方に暮れてしまっていた。そんな矢先に、さらに途方に暮れる事が起こってしまったのだ。浩と離婚したのだ。

 それからはもう店に行くわけにはいかなかった。うっかり彼に会えば、自分はもう何をするかわからない。理性が感情を完全に制御出来るようになるまで、決して店には行くまいと思っていた。

 そんななか転職を決め、その転職先には彼がいた。偶然にしては出来すぎている。心の底からとほほ、と思った。



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