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小説 月に背いて 7

 1月になった。雪こそ降らないものの、連日霜が降りて、車のフロントガラスが白く凍る季節になった。私はその日の朝、いつものように車を運転して仕事へ向かった。交通量の多い二車線の県道を通り、橋を渡り、勤務先の大学病院へ向かっているところだった。

 橋を渡り終えたところで、前を走っていた白い軽自動車が急停車した。私は慌ててブレーキをめいっぱい踏んだ。急ブレーキの音が大きく鳴り響き、それと同時にドンという衝突音が前方から聞こえた。冷汗が滲み、心臓は破裂しそうなくらい激しく鼓動している。軽自動車を凝視すると、どうやらその前を走っていた黒いワンボックスカーに追突したらしい。私は間一髪で接触せずに済んだ。

 ハザードランプが点滅した軽自動車から、髪を一つに束ねた若い女がおどおどしながら出てきた。黒いワンボックスカーからはスマートフォンを手に持った白髪頭の男が険しい表情を滲ませて降りてきた。二人とも怪我はなさそうなので、ほっとして彼らを横目にその場を通り過ぎた。あとほんの少しブレーキを踏むのが遅かったら、私も追突していただろう。あるいは、もう少し家を出るのが遅かったら、渋滞に巻き込まれていた。まだ胸がどきどきしていた。

 それからというもの、毎日のように交通事故現場を目撃するようになった。その瞬間を見るわけではないのだが、事故のあとの交通規制が行われている現場をしょっちゅう目にする。気にしないようにはしていたが、あまりにも頻回に目撃するので、次第に恐怖を感じるようになった。

 なにかに、次は私の番だと警告されているような気がした。


「どうした?」

 先生の声にはっとした。私は彼が運転する車の助手席に座っていた。私達は近所の洋食屋で夕食を済ませたあと、家に向かっているところだった。

「なんか今日ぼうっとしてるけど、大丈夫か?夜勤明けじゃないよな?仕事忙しかった?」
 先生は心配そうな声を出した。

「ううん大丈夫、少し眠いだけ」
「本当か?最近痩せたような気がするけど、ちゃんと食べてるか?」
「食べてるよ。大丈夫。子供じゃないんだから」

 苦笑をもらした。毎週会うようになっても、私は相変わらず彼を先生と呼び、彼は私のことを名字で呼んだ。

「今日、泊まっても大丈夫?」と彼は言った。
 普通に付き合っているのならば、わざわざそんな事を心配そうに尋ねる必要はないと思うのだが、うちに来るときは必ずその言葉を口にした。

「うん。いいよ」

 そう答えるたびに、もし嫌だと言ったらこの人はどうするのだろうと考えずにはいられなかった。

 家に着いて、私達は車から降りた。白い息が大きく漂い、凍りつくような冷たい空気がマフラーごしに頬を刺した。

「冬の匂いがするね」と私は言った。
「そうだな」
「冬の匂いがわかるの?」
「わかるよ。普通わかるだろう」

「季節の匂いって、誰にでもわかるものだって昔は思ってたけど、案外わかる人の方が少ないんだよ。先生はわかるの?」

 少しだけ考え込むような表情をしたあと、先生は夜空を見上げながら言った。

「お前が思っている匂いと俺が思ってるものはまた違うかもしれないけど、真冬の匂いならわかるよ。なんていうんだろう……乾いた草木の匂いみたいな。うまく説明出来ないけど」

 喉仏がくっきりと浮き出ている。彼の方が痩せたように思う。

「冬の匂いって、少しだけ寂しくなるよね」
「そうだな」

 いつも論理的な人が、こんな風に理屈では説明出来ない事をわかってくれたのが不思議で仕方がない。それと同時に、言葉では言い表せない何かを共有出来ることが妙に嬉しかった。毎日のように事故を目撃することを相談してみようかと思った。

「寒いから家に入ろう。風邪ひくと大変だろう」

 とても優しい声だ。それなのに、彼の瞳には寂しい影がちらついていた。この人はどうしてこんなに寂しい目で私を見るのだろうか。

 私を家の中に入らせたあと、先生は玄関のドアを右手でそっと閉じた。その音は、いつも何かを迷っていることを感じさせる不安定な響きを放っていた。

 私は彼の背中を見つめた。七年ぶりに再会して、毎週会うようになっても、もう教師と生徒じゃなくなっても、瞼の裏に浮かび上がるのは彼の背中ばかりだ。

 和室の窓から外を眺めると、空は一面どんよりとした厚い雲に覆われ、限りなく黒に近い藍色に染まっていた。寂しい冬の空の色に。

 月が見えればいいのにな、と思った。

 


 


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