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小説 月に背いて 2

 二次会は会場近くのダイニングバーで行われた。そこへ三年生の時同じクラスだった井川くんが突然現れた。彼は恭子と同じ大学に進学し、サークルが一緒だったらしい。新郎とも知り合いのようだ。バスケ部に所属していて、声が大きくて小さな事でよく笑う人だ。仕事帰りのようでスーツを着ていた。私は井川くんとは委員会が一緒だったので、当時は気軽に色んな事を話せる関係だった。

 ビンゴゲームが終わったあと、私達はお互いの近況報告を交えながらたくさん会話をした。そのうちに、話題は久しぶりに会った佐田先生へと移っていった。

「佐田先生に久しぶりに会ったけど、見た目はあんまり変わらないね。でも随分疲れてるみたいだったけど、大丈夫かな?奥さん、調子が悪いの?」
 美希が恭子に尋ねた。

「ああ、……このことは誰にも言わないでね。奥さんが乳がんになって、あちこちに転移しちゃったみたいで……。もう何年も闘病してるみたい」
 恭子は目を伏せながら言った。言葉を選んでいるようだった。

「そうなんだ。大変なんだね」と美希は言った。

「治療に付き添ったり、奥さんの代わりに家事もやってるみたいだよ。でも佐田先生って昔から無口でしょう?自分の事は全然話さないからよくわからない」

「子供はいないの?」と私は尋ねた。

「結婚してすぐに癌が見つかったみたいだから、いないみたいだよ」

 私は酔いがまわって、ほんやりしながら彼らの話を聞いていた。先生が結婚して、奥さんは癌で……。なんだか信じられなかった。目を閉じると、白衣を着て教壇に立ち、黒板に向かっている先生の後ろ姿が思い浮かんだ。私が思い出すのは彼の背中ばかりだ。どうしてなのだろう。
 少し体を動かすだけで視界がぐるぐるとまわった。こんなに酔うのは久しぶりだと思った。

 二次会が終わったあと、タクシーを呼ぼうとスマートフォンをいじっていると、井川くんが「俺、車で来てるから家まで送ってやるよ」と声をかけてきた。彼は酒が飲めない体質らしく、ソフトドリンクばかりを飲んでいた。美希は恋人が車で迎えに来るようだった。私は素直に井川くんに送ってもらうことにした。

 外へ出ると、湿った草木の匂いのする夜風が流れた。酔って火照った頬に春の風が心地良かった。南の空には半月がくっきりと輝いていた。

「きれいな月だな」と井川くんは夜空を見上げてつぶやいた。あらためて井川くんの姿を眺めると、高校生の頃よりも痩せたように思う。スーツを着ている事が不思議だった。彼はバスケに打ち込んでいたので、ジャージを着ている姿が印象的でそれしか思い出せなかった。人の記憶というのは自分の都合のいいように保存されていくのだなと思った。

 井川くんの車の助手席に乗り込むと、なんだかよくわからない甘い芳香剤の香りがした。

「椎名の家って市内だよな?実家にいるの?」
 彼はナビをいじりながら私に尋ねた。

「ううん、叔母さんが住んでた家が空き家になって、今はそこで一人暮らししてるの。案内するね」

 車はゆっくりと走り出した。

「なんでまた叔母さんの家に?」
 彼は右手でハンドルを持ちながら言った。

「実家より職場に近いし、一人暮らしがしたかったから」
「一軒家?」
「そう。古い平屋で庭まであるの。リフォームはしてあるから家の中は綺麗なんだけど、時々お化け屋敷なんじゃないかなって思う事がある」
「どういう事?」
 井川くんは大きい声を出した。

「なんだろう、……あの家に住むようになってから変な夢を見たりするし、上手く説明出来ないんだけど、不思議な感じがする家なんだ。隣には小さい神社もあって。……変なこと言うけど、私は子供のころから少し霊感みたいなものがあるみたい。だから余計にそう感じるだけなのかもしれないけど」

「マジで?大丈夫なの?そんな怖いところによく一人で住めるな」

「だって別に生活に支障はないもの」

 交差点の信号が赤に変わり車はゆっくりと停車した。井川くんは少しだけ私の方を見た。

「椎名ってさ」

 ウインカーの音が車内に小さく響いた。それに混じって彼のため息みたいなものが微かに聞こえた。

「昔からちょっと変わってるよな。落ち着いてるし、大人びてるっていうか」

「そうかなあ」
 私は彼の声を頭の片隅でぼんやりと聞いていた。

「普通の女子みたいに、小さい事で騒いだりしなかっただろ」
 そう言われてみると確かにそうかもしれないなと思った。

「私、変かな。女らしくない?」

「俺はむしろかっこ良くていいと思うけど」

 車は静かな住宅街を走っていた。あと5分ほどで私の家に着く。このあたりは山に囲まれた田舎の集落で、田畑が広がりその中に古い家がぽつぽつと立ち並んでいた。街に出るには車で20分ほど走らなければならない。外に灯りはほとんどなく暗闇に包まれていた。

「俺、来週から半年くらい仕事で北海道に行くんだ。お土産買ってくるよ。家も近いしさ、帰ってきたら二人でメシでも行かない?」

「うん。そうだね」
 私は何も考えずに答えた。

 私の家の前で車は停まった。ウインカーのオレンジ色の点滅が暗闇のなかで生き物のように動いて見えた。

「本当に一軒家なんだ」と彼は驚いたように言った。
「まわりに何もないでしょう」と私は笑った。
「また連絡するよ。今日はみんなに会えて良かった」
「うん。私も久しぶりに会えて良かった。送ってくれてありがとう」

 車から降りた。彼は運転席から軽く手を振ったあと、車を前進させた。私は車が見えなくなるまで手を振っていた。高い位置にある半月の朧げな明かりのなか、家の門をくぐり玄関へと足を運んだ。この家の間取りは3LDKで、もともとは父方の祖父が建てたものだ。祖父母が亡くなったあとは父親の妹夫婦が住んでいたが、二人で海外出張に行くことにななったため、その間私が一時的に借りているのだ。

 酔っ払っていたので歩くたびに足元がふわふわした。私はシャワーを浴びるため浴室に向かった。心地よい浮遊感に包まれながら、今日あった出来事をゆっくりと思い出していた。

 出来ることならば一生会いたくないと思っていた人に会ってしまった。会ったら、また彼の事ばかりを考えてしまう自分が容易に想像出来た。私は高校生の時、佐田先生の事が好きだった。誰にも打ちあけることが出来ずに、ずっと自分の胸に秘めていた思いだった。最後まで告白はしなかったけれど、先生は間違いなく私の気持ちに気がついていた。

 私は六畳の和室に布団を敷いて横になった。その夜は酔っているのになかなか寝付けなかった。目を閉じると、佐田先生の姿が何度も何度も瞼の裏に浮かび上がった。南側には庭に面した小さな窓があり、カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいた。私はその細い光をじっと見つめながら、困った事になったなあ……と思った。




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