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3.11

あの日のことは今でもはっきり覚えている。


会社のサーバーとかパソコンがたくさん置いてある作業場で、数人の同僚たちと仕事をしてた時だった。
突然、揺れ始めて、目の前のモニターがグラグラと倒れそうになって、それを慌てて押さえて。
でも、どんどん揺れが大きくなっていって。
5~6人の同僚と立ち上がって棚の上のモノが落ちないように支えた。
2、3m離れたところになるサーバーラックがガタガタと大きな音を立て、今にも倒れそうだった。
長くて揺れのとても大きい地震だった。

少し揺れがおさまったとき、別の棟にいた人たちが飛んできて、まだグラグラするパソコンが落ちないように支えてたわたしたちに言った。
「なにしてんの!? 早く逃げて!
 パソコンなんかより、命だよ!
 余震が来るから!
 モノなんかどうでもいいから!
 早く逃げて!中庭にみんな出て!」
そんな風に言ったリーダーの言葉にはっとした。
逃げるのはあたり前のことなのに、判断を間違える。
そういう誤判断が命取りになりかねないのに。
パニックになってる自分が怖いと思った。

案の定、すぐにまた余震がきた。
中庭には結構な数の社員が集まっていた。
各々、ポケットに入れていたスマホを数人で覗き込みながら、速報を確認していた。
「震度7!?」
「嘘でしょ?」

会社は通達を出した。
「帰る手段のある人は帰っていい」
「帰る手段のない人は無理せず会社に留まるように」
「携帯は混雑するから家族や友人と連絡をとるのはなるべくメールなどで」
「派遣社員ももちろん帰っていい」

わたしは同僚の一人が車で送ってくれるというのでお願いした。
会社からわたしの自宅は車ならば20分ほどの距離なのに、1時間半かかった。
途中、ガソリンを入れたが、すでにガソリンスタンドも混み始めていた。
わたしを送った後、同僚は横浜方面に住む2人を送っていった。
結局、同僚から帰宅したと連絡があったのは夜中の1時過ぎ。
会社を出てから実に9時間後だった。頭が下がる。

一方、17時過ぎには帰宅できたわたしだったが、心配なのはうちの相方だった。
回線が混雑しメールの送受信もすごく遅れてたから仕方が無いけど、なかなか連絡がつかず、すごく不安だった。
連絡がついたのは地震発生から3時間後だった。
「交通機関がマヒしてるので、会社泊する」と。
へたに動くよりそのほうが安心だと思った。
が、結果的には同じ街に住む同僚と2人で、歩いて4時間かけて帰宅した。 
夜中の1時近かった。
わたしも一人では眠れそうになかったので、帰ってきてくれて安心した。

帰宅してから相方が帰ってくるまでの7、8時間、不安で仕方がなかった。
ずっと友人たちや実家と連絡を取り合っていた。
ありがたいことに、札幌の実家も、都内の実家も大丈夫だった。
遠方の友だちがみんな心配してメールをくれた。
同じ恐怖を味わった関東圏の友だちも、なんとか無事だった。
家のいろんなものは落ちて壊れたようだったけど。

その日、わたしは友だちと新宿でライブに参加する予定だった。
もちろんライブは中止だったが、ライブ時間よりだいぶ前に都心に出ていた友だちは、地震のせいで電車が止まり帰れなくなった。
不安がる友だちに、何度もメールやツイッターで話しかけた。
友だちは都内に住む身内と連絡がついて、その日はそこに身を寄せた。

家で1人でテレビのニュースを見ていると、津波の映像や倒壊した建物の映像ばかりが流れてきて、ますます不安になった。
そんな中、スカイプで話し相手になってくれた友だちにはホントに感謝だった。
話す相手がいたのは多少なりとも不安が紛れた。

あまり実害がなかったわたしは、翌週から普通に仕事に行ったが、出社できた社員は半分以下だった。
出社していた社員はみな、都の計画停電やらなんやらで取引先との連絡を取り対策しなければならず、大変だった。

あれから13年。
日常は戻ったかに見えるけど、被害にあった地区や人々の生活は100%戻ることはないだろう。
あんなことが起こるなんて、誰が予想できた?
これからも何も起こらないなんて保証はない。
人生の価値観のようなものもガラっと変わった気がする。
ただ、一つ言えることは、忘れちゃいけない、ってことだと思ってる。

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