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バンプ聴いてたやつ

妻と出会って十年以上たつが、ふとしたときに牽制しあうことがある。カマをかけて相手をおとしいれようとする。ひとたびそれがはじまるとふたりのあいだにつよい緊張が走り、押してはひいての攻防がえんえんと展開されることになる。

互いに同様の疑惑をもっているのだ。

つまり、

もしかしてこいつは、BUMP OF CHICKENのファンだったことがあるのではないか?

という疑惑である。


この戦争がいつはじまったのかはもう思い出せない。

だがいつしか私たちは、「中高生のころにバンプを聴いてたやつ」の明確な像を共有していて、過去に自分がほかならぬ“そいつ”だったことが相手に知れると(もちろん、実際にそいつだったことはないのだが)、骨の髄までけちょんけちょんにいじられ、一族の汚点として末代までかたり継がれることになるだろうという強い危機感をもっているのだった。

私たちは言う。


「『天体観測』しか知らんなあ」

 

これは、実際にそうである。『天体観測』しか知らんのだ。というか『天体観測』のサビしか知らんのだ。おそらくは妻もそうなのだろう。だが私たちはこのセリフをくり返し言いすぎて、ちょっと芝居がかってひびくようになった。相手の「『天体観測』しか知らんなあ」が、おそろしくしらじらしく聞こえるのだった。


ある日、ふたりで店に入った。店はどこでも良い。仮にヴィレッジヴァンガードとしておこう。
私たちは店内にひびく音楽に耳をそばだてる。 


「バンプかな」


と私は言う。これは、ギリギリの牽制である。


「そんなもんわからんし」


と妻は無碍にこたえる。場合によっては私の挑発にのって「やっぱアンタ、バンプ聴いてたんでしょ」と踏み込んでくることもある。だが私は知っている。この音楽はバンプっぽいが、バンプではないのである。じゃあ何かと聴かれたら困るのだが、とにかくバンプではないのだ。たわむれにスマホのGoogleにこの音楽を聴かせてみればそれがバンプではないことを証言してくれるだろう。その証言を以て私はバンプの曲とバンプっぽいバンドの曲の聞き分けもつかないくらいバンプをしらない人間という称号を得られるのだ。

こうして私は十年かけてアリバイをつくりつづけている。


一方、妻が持つ強いアリバイは、かのじょがアジアン・カンフー・ジェネレーションのファンだというものだ。

私はアジカンを知らない。「消してぇぇぇぇぇーーーー」のやつしか知らない。曲名もしらないので、ある意味、「見えないものを見ようとしてる」やつが『天体観測』という曲名だと知っている分だけ、アジカンよりバンプについての方がくわしいと言える。

そんな私に妻は言う。


「アジカンは女々しくない」


私はこの断定を受け入れるしかない。なぜなら私はアジカンを知らないからだ。そうか、女々しくないのか、で終わりである。

翻って私たちはバンプを女々しいと思っているわけだ。この女々しさこそがわれわれふたりを羞恥の渦にひきずりこむ要因である。しかし思えばそれも変な話で、われわれは『天体観測』のサビしか知らない。あれで、女々しいも女々しくないもほんとうはわからないのである。だが、私たちはその人生のなかで出会ってきた“バンプ聴いてたやつ”の像から、その音楽性を女々しいと確信している。

この女々しさは、痛いと地続きである。バンプをとりまく言説には、「中二」とか、「サブカル」といった不名誉な符丁が飛び交っている(気がしている)。それらが、つまり、バンプなのである。それが、バンプであり、中高生のころにバンプを聴いてたやつなのだ。

しかるに、「アジカンは女々しくない」という妻の断定をまえに少々の疑問がないわけではない。というのも、ちゃんと調べたわけではないのでさだかではないが、アジカンはなんかアオハルっぽい映画の主題歌を歌ってた気がするし、サブカルっぽいアニメの主題歌を歌ってた気もするのだ。それはちょっと、バンプをとりまく環境のそれにちかくないか? なんて思ったりもするわけである。

だが、それは言わないでおく。最後の一歩は踏み込まずあえて逃げ道をつくってやっておくことがかえって自分を助けることになるのを、私はこれまでの人生の経験で知っていた。意気揚々と切り込んだ先に自分の隙が生まれる。つけ込んだ分のカルマは、そのまま自分に返ってくる。それが宇宙の法則だ。


そのようにして私たちは最後の一線を足元で確認しながら一進一退の攻防をくりひろげてきたわけだが、十年間もそんなことをつづけていると、相手の証言にいくつかのほころびを見つける。「もしかして……」が確信に変わる瞬間があるのだ。だから戦争が終わらないとも言える。

たとえばあるとき、妻が高校生のころに付き合っていた男の子が熱心なバンプリスナーだったことが判明した。あまつさえ妻は、その男の子から「バンプがテレビ番組に出演しない格好良い理由」を聞き、感心さえしたと言うのだ(ちなみに、私もその「格好良い理由」を聞いたのだがよく意味が分からなかった。だが、かなりバンプっぽい理由だった)。

これもう勝負あっただろ。

アンタそれ、絶対バンプ聴いてたやん。

そう思った。

しかし、妻は言う。


「そんな彼氏のことがちょっと恥ずかしかった」


あくまで自分を観測者の位置に置くというのだ。


「それでも私はアジカンを聴いていた」


妻の言葉は力強い。

そんなことあるかよー、RADWIMPSくらい聴いてたんじゃないの? と思ったりもするのだが、思えばわれわれは、この十年間、状況証拠を十分に検証することもなく、「聴いていた/聴いていなかった」の水掛け論に終止した。どこまで追いつめても、「それでも私は聴いてない」と言い張りさえすれば、とりあえずは自分の安全が保証されるのだった。

この戦いに終わりはない。 

だが、いつかは終わらせなくてはならなかった。 

私たちはこのトムとジェリーじみたたわむれに決着をつけて大人にならなくてはならないのである。そのためにはもはや荒療治しかのこっていないと見えた。


ある日の朝、私はまだ妻が眠る寝室のまえにたった。

そうしてドアノブをひねり、そのままゆっくりとドアを押した。

そこには、ベッドに身体を横たえてねむりの小舟にゆられる妻の姿があった。

しばらく私はその場にたたずんだ。妻はたまに、すんごい歯ぎしりをした。大丈夫かオイ。


「○○(妻の旧姓)さん」


意を決して妻に呼びかけた。

返事はない。

私は妻の耳元まで近づいた。


「君はあの日、彼氏にほだされてバンプを聴いてしまった。以来、バンプのファンになった。そうだね?」


私は妻の記憶の書き換えを試みた。我ながら相当なである。間一髪のところで主人公が駆けつけてきそう。

だが、もう悪でも良い。私はこの戦争を終わらせに来たのだ。


「ギリギリギリギリ……」


妻は歯ぎしりで答えた。

途端、私は脱力した。

何やってんだマジで。そう思った。

なんてバカらしいのだろう。そう思った。……


はじまりはきっと些細なことだったはずだ。
ふたりで入ったヴィレッジヴァンガードかなんかで店内にバンプの曲がかかっているのを聴いて、「なんか高校生のときすごいバンプ好きな人いなかった?」などと妻がきり出したのだろう。その声が発する波動から私は妻のバンプへの評価をさとったのだ。あるいはその発言は私のものであり、私のバンプへの評価を妻がさとったのかもしれない。もしくは、店内にひびくバンプの曲の感想を互いに述べ合うなかでモクモクとバンプの悪評が醸成されていったのかもしれない。じっさいのところ、出発時点で私たちは“バンプを聴いてたやつ”に対していかなる感情もいだいていなかったのではないか。ふだんから互いにいだいているほのかな不満が“バンプを聴いてたやつ”という仮想敵を生み出したのかもしれない。だとするのならば私たちの問題は“バンプを聴いてたやつ”それ自体にはなく原因は思っているよりもはるか根深いところにあるのかもしれない。

私は寝室を出てドアをしめた。


「子どもは作らないの?」

あるとき、数少ない私の知り合いのひとりがそのように私に問いかけた。私よりはるか年配の男だが、まったく愚かなやつだ、と思った。

「僕たちには解決しなくてはならない問題があるんです」

と私は答えた。いまさら読者には言うまでもないことだが、互いのバンプについての疑惑が晴れないことには子孫をのこすなどという選択肢は考えられなかった。

仮にこのままの状態で子が生まれたとしよう。

時がながれてある日、なんの気なしにのぞいた息子の部屋からバンプの楽曲が聴こえてきたとしたら、はたして私はどんな表情をつくれば良いのだろう。まさか。私の息子がバンプを……?

「きみが中高生の頃ころにバンプを聴いていたせいだ」
その日の夜、息子が寝静まってから私は妻にそう詰め寄るかもしれない。

「なんのことかしら。あなたが中高生のころにバンプを聴いていたんじゃないの」
そんなふうに妻はしらをきるだろう。あるいは私の言動に優生思想を読みとり、軽蔑の目を向けてくるかもしれない。


「もういい、勝手にしろ」


そう言い放って私は家のドアをしめて夜の街に出た。凍えるような冬の日だ。私はコートの襟を立てる。

何日も何日も街を徘徊した。やがて私はただの男になる。名を持たぬただの男だ。

ある日男は夜行バスにのった。行先はしらない。バスは北にむかった。

それから男は辞めやすいバイトを転々としてその日ぐらしをつづけた。


男はバンプを聴いていた妻と子の存在をすっかりわすれてしまっていた。自分がいまいるのがどこなのか、そもそも自分は何者なのか。そんなことさえも男の興味の外にあった。

何度目かの冬が来た。凍えるような冬の日だ。街にクリスマスソングがひびく。おもえばもう何十年もクリスマスソングの定番はいれかわっていない。いつの世も山下達郎であり、竹内まりやだ。この夫婦に日本のクリスマスは支配されている。


「えー、つぎのお便り。ラジオネーム※※※さん」


曲が終わり、街に男性の声がひびいた。流れていたのは有線だったらしい。


「いわゆるクリスマスソングではありませんが、わたしにとってはクリスマスの思い出の曲です……」


男性が番組にとどいたメールを読み上げた。男は聞くともなくそれを聞いた。


「もう二十年もまえのことですが、わたしが高校生だったころに付き合っていた男の子がいました……」


男の両手は男が思考するよりさきにその両耳をふさいでいた。

だめだ、これを聴いてはならない。

この場からはなれなくてはならない。

男はそう思った。だがどれだけ力を入れようとしてもかれの両足はレンガでできた地面につよくはりついて、頑としてはなれなかった。

やがて、いつかどこかで聴いたことのある、男にとりなによりなつかしい音の連なりが街にふりかかった。



男の頬を熱いものがつたった。男はいま、何かを思い出そうとしていた。


(fin)


※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。





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