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街歩き #024 | 東京都府中市の旅

東京都府中市


 こんにちは。本日ご紹介する街は2022年12月10日に訪問した「東京都府中市」です。

 大国魂神社がある周辺に武蔵国国府が置かれていた府中。府中駅前から大國魂神社まで続く参道の並木道が私のお気に入りの馬場大門のケヤキ並木です。少し歩いたところにある分倍河原は新田義貞軍と鎌倉幕府軍が激突した決戦の地として有名ですが、”ちはやふる”の千早と太一の街でもあります。

 武蔵国府の国司舘跡は家康の府中御殿跡でもあったという武蔵国府跡・武蔵総社として六所宮と呼ばれた大國魂神社・源義家と徳川家康ゆかりの馬場大門のケヤキ並木・新田義貞軍鎌倉進攻の激戦地である分倍河原古戦場碑・足利尊氏開基の高安寺など…。

 今回は「東京都府中市」を歩きます。

武蔵国府跡(国司館地区)

武蔵国府跡(国司館地区)

 国史跡。奈良時代に武蔵国府の国司館があった場所。更に2008〜2011年に行われた発掘調査の結果、同じ場所に徳川家康の府中御殿があったことが判明。府中本町駅近くにあり、国司館の模型と原寸大の柱が復元されています。

武蔵国府跡(国司館地区)

 国司館とは、奈良の都から武蔵国の国府に赴任してきた国司の居住兼執務室のことです。”現代で言えば、東京都知事の公館にあたる”という説明がわかりやすいですね。

武蔵国府跡(国司館地区)

 発掘調査により、武蔵国府国司館があったのと同じ場所に徳川家康府中御殿が建てられていたことが判明しました。府中御殿は1590年の造営で、家康・秀忠・家光の三代に渡り鷹狩の宿舎として使用された施設です。

武蔵国府跡(国司館地区)
武蔵国府跡(国司館地区)

安養寺(天台宗)

安養寺

 859年慈覚大師円仁開山。大國魂神社の旧別当寺。大國魂神社と東京競馬場の近くにあるお寺です。本堂前の大きな像は慈覚大師円仁像ではなく伝教大師最澄像です。手入れの行き届いた境内に観音堂や各種石仏が配置されています。

安養寺・参道

 由緒がわかる文献は江戸時代の火災で焼失していますが、寺伝では859年の創建と伝わります。武蔵国府があった時代の創建になるので、国府とも関係が深かったのでしょうね。

安養寺・山門

 1296年尊海僧正が再興。川越の天台宗寺院・喜多院の再興も1296年伏見天皇の勅命を受けた尊海僧正によるものでした。当時は二度の元寇により北条得宗家への信頼が揺らいでいた時期。伏見天皇は東国に朝廷の権威を示すために寺院再興を行ったのではないかという説もあります。

安養寺・本堂

 開山は慈覚大師円仁。本堂前にある像は慈覚大師円仁ではなく伝教大師最澄像ですね。天台宗開祖の伝教大師最澄に教えを受けた慈覚大師円仁は第3代天台座主を務めました。

 天台座主は第3代円仁から太政官が任命する公的な役職となり、明治維新まで続きました。天台座主で有名な人物を挙げると、智証大師の第5代円珍。第18代良源は元三大師として知られています。第47代覚猷は鳥獣戯画の作者・鳥羽僧正。第62・65・69・71代の慈円は"鎌倉殿の13人"では山寺宏一さんが演じていましたね。還俗して大塔宮・護良親王となったのが第116代尊雲法親王。第153代義円は還俗して6代将軍足利義教に。第166代覚恕は織田信長による比叡山焼討ちの時の天台座主でした。

安養寺・伝教大師最澄像

 観音堂に祀られている聖観世音菩薩は浅草寺からの御分体です。多摩川33観音の第5番札所に指定されています。

安養寺・観音堂
安養寺・御朱印

大國魂神社

大國魂神社・拝殿

 旧官幣小社・別表神社。111年創建。大化の改新によって当地に武蔵国府が置かれ、武蔵国内の祭典を行う便宜上から武蔵国中の主要神社が当社に集められて一ヶ所に祀られました。武蔵総社として武蔵国内の神社6社を合祀したため六所宮とも呼ばれています。源頼朝以降の北条氏・足利氏・徳川将軍家も崇敬した多摩地区の中心神社です。

大國魂神社・拝殿

 寺院では梵鐘が吊るされている鐘楼を見かけますが、こちらにあるのは太鼓が置かれた”鼓楼”。1600年頃徳川家康が江戸開府を祝って造営した六所宮の本殿と併せて建立されたもの。1646年の火災で焼失し、現在の鼓楼は1854年に再建されたものです。

大國魂神社・鼓楼

 境内にある大國魂神社宝物殿。今回初めて見学しました。一階には例大祭(くらやみ祭)で使用される神輿と大太鼓、二階は大國魂神社に伝わる寺宝や関連資料が展示されています。収蔵されている木造狛犬一対は国重文で運慶の作とも伝わります。

大國魂神社・宝物殿
大國魂神社・宝物殿パンフレット
大國魂神社・木造狛犬(国重文)

 同じく境内にあるふるさと府中歴史館も今回初めて見学。府中は競技かるたを題材にした人気作品”ちはやふる”の舞台の一つ。入口にも"ちはやふる"パネルが設置されていますね。

府中市立ふるさと府中歴史館

 館内にあるタッチパネルを利用した”デジタル郷土かるた”で楽しめるのは”武蔵府中郷土かるた”。府中市内の歴史・文化・自然を紹介した50年以上の歴史を持つかるただそうです。なんだか群馬県の上毛かるたに似てるな。

府中市立ふるさと府中歴史館

 参道の提灯が酉の市の名残を感じさせますね。今年も中央には"疫病退散"。

大國魂神社・提灯
大國魂神社・社号標と鳥居
大國魂神社・御朱印

武蔵国府跡(国衙地区)

武蔵国府跡(国衙地区)

 国史跡。奈良時代〜平安時代中頃にかけて武蔵国府の国衙が置かれた場所です。国衙とは国庁と役所群のことで、大国魂神社やふるさと府中歴史館の辺りはかつては武蔵国の政治や文化の中心地でした。

武蔵国府跡(国衙地区)

 大国魂神社に隣接する場所に史跡施設が設置されています。柱は遺跡の上に盛土し、柱跡の場所を示しているものです。建物のミラーガラスへの写り込みで建物の規模を表現する工夫がなされています。

武蔵国府跡(国衙地区)

 建物内に掲示されているパネル。建造物跡の遺跡は多くがそうなっていますが、発掘された柱跡の上に盛土をし、その上にレプリカの柱が設置されています。実際の遺跡は地中で保護されているということですね。

武蔵国府跡(国衙地区)
武蔵国府跡(国衙地区)

馬場大門のケヤキ並木

馬場大門のケヤキ並木

 国天然記念物。府中駅前から大國魂神社へ続く参道に植えられている馬場大門のケヤキ並木。1062年、前九年の役で奥州征伐の際に大國魂神社で戦勝祈願した源頼義・義家親子が戦勝御礼で苗を植樹したのが始まりと伝わります。その後、1600年の関ヶ原の戦いで神主が戦勝祈願し、府中から多くの軍馬を送りました。戦後に、家康から御礼で献納されたのが現在のケヤキ並木です。

馬場大門のケヤキ並木

 馬場大門のケヤキ並木の途中にある源義家の銅像。源義家は源頼朝や足利尊氏の祖先にあたる源氏の棟梁。岩清水八幡宮で元服したことから通称・八幡太郎と呼ばれ、奥州に出陣した前九年・後三年の役で知られる武将です。

馬場大門のケヤキ並木・源義家公像

 現在、源義家当時のケヤキは残っていません。源義家銅像の周辺にあった古木はほとんど枯れてしまっていたため、1981年に伐採されました。徳川家康が献納したケヤキが現在のケヤキ並木ということになります。

馬場大門のケヤキ並木

称名寺(時宗)

称名寺・本堂

 941年創建。1245年道阿一光上人開山。源経基が武蔵介だった時の館跡と伝わります。府中駅近くケヤキ並木通りから一本奥に入ったところにあります。境内入口近くには子育地蔵堂と一遍上人像。カラフルな御朱印は13時からの授与ということで残念ながら拝受できませんでした。

称名寺・山門
称名寺・子育地蔵堂
称名寺・一遍上人像
称名寺・御朱印の案内

法音寺(真言宗豊山派)

法音寺・本堂

 多摩川観音第24番札所。創建不詳。京王線中河原駅近くの鎌倉街道が新府中街道と合流する場所にあります。さほど広くないお寺ですが手入れの行き届いた境内です。コツコツと巡ってきた多摩川34観音霊場も残り札所1箇所となりました。

法音寺・五輪塔

 小さな境内ですがよく手入れがされています。本堂前も色鮮やかですね。

法音寺・本堂
法音寺・弘法大師像

 鎌倉街道と新府中街道の交差する場所にあります。交通量の多い2つの街道に挟まれたお寺です。

法音寺
法音寺・御朱印

新田義貞公之像・分倍河原古戦場碑

分倍河原古戦場碑

 1333年鎌倉討幕に挙兵した新田義貞。小手指原・久米川で勝利し、南下する新田軍を幕府軍が迎え撃ったのが分倍河原です。新田軍は一度敗れますが、再び幕府軍を急襲し戦いに勝利。分倍河原の戦いの後、関戸で幕府軍を壊滅させて、新田軍は一気に鎌倉へ進撃します。

 JR分倍河原駅前のロータリーにある新田義貞公之像。1988年建立で作者は文化勲章受章者の富永直樹。太刀を振りかざして進軍を指揮するような騎馬像は迫力があります。

分倍河原駅前・新田義貞公之像

 分倍河原駅前の新田義貞公之像から徒歩15分。分倍河原古戦場碑がある新田川緑道が見えてきます。

新田川緑道・分倍河原古戦場碑 入口

 新田川緑道はNEC府中事業場の前から分倍河原古戦場碑を通り、府中市郷土の森公園まで続く3kmに渡る緑道。農業用水として使われていた新田川を暗渠化し、その上に整備されています。

新田川緑道

 1333年上野国で挙兵した新田義貞。進軍途中で続々と武士団が合流し、150騎ほどが20万の軍勢に膨れ上がったと伝わります。小手指原の戦い・久米川の戦いで鎌倉幕府軍を撃破。最後の防衛線である多摩川での戦いが分倍河原の戦いです。

分倍河原古戦場碑

 分倍河原では、急遽派遣された執権北条高時の弟・北条泰家を大将とする大軍が待ち構えていました。総攻撃により新田軍は一時壊滅状態に。新田軍敗走の際に焼失したのが武蔵国分寺でした。

分倍河原古戦場碑

 撤退後、体勢を整えた上で奇襲戦で再度分倍河原に押し寄せた新田軍。大勝に油断していた鎌倉幕府軍を撃破します。この戦いの勝利で多摩川を越え、最終決戦は関戸の戦い。鎌倉幕府軍は関戸で敗れた時点で戦えるだけの戦力をほぼ残していませんでした。この後、新田軍は一気に鎌倉まで進撃します。

分倍河原古戦場碑 案内

高安寺(曹洞宗)

高安寺・本堂

 多摩川観音第33番札所。1340年頃足利尊氏開基。改名前の"高氏"から名付けられた武蔵国安国寺です。かつては藤原秀郷の居館。分倍河原の合戦では新田義貞も本陣を構えました。

高安寺・寺号標

 足利尊氏開基の高安寺。足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石の勧めで全国各地に南北朝の戦没者供養を目的とした禅寺の安国寺を建立しました。武蔵国の安国寺が高安寺です。

高安寺・山門

 本堂正面に掲げられた”等持院”の扁額。足利尊氏の法名が院号になっています。寺紋も足利氏の家紋"丸に二つ引"ですね。

高安寺・本堂
高安寺・本堂
高安寺・本堂

 平安時代中期に武蔵国守となった藤原秀郷館跡に建立された見性寺が高安寺の前身。境内には藤原秀郷を祀る秀郷稲荷大明神の祠があります。

高安寺・秀郷稲荷大明神

 本堂裏手にある”弁慶硯の井戸”。源頼朝の怒りを買って鎌倉入りを許されなかった源義経。京都に向かう途中で義経一行は見性寺にしばらく滞在。義経は弁慶らと共に赦免祈願の大般若経を写したと伝わります。弁慶硯の井戸は写経のために清水を汲み取った井戸とされています。

高安寺・弁慶硯の井戸
高安寺・弁慶硯の井戸

 山門の外にある観音堂。高安寺は多摩川34観音の第33番札所に指定されています。

高安寺・観音堂
高安寺・御朱印

小さな旅の終わりに

大國魂神社・大鳥居

 武蔵国府があった府中。大國魂神社周辺はかつては武蔵国の首都でした。大國魂神社境内にあるふるさと府中歴史館の脇に国史跡・武蔵国府跡の碑があります。周辺には武蔵国府跡の史跡も多くあり、大国魂神社参拝時は併せて訪問してほしいなと思います。

大国魂神社・武蔵国府跡碑

 大國魂神社のくらやみ祭。毎年ゴールデンウィークの時期に開催される賑やかな例大祭です。司馬遼太郎"燃えよ剣"は土方歳三がくらやみ祭に向かう場面から始まります。

ふるさと府中歴史館・武蔵府中くらやみ祭パネル

 競技かるたを題材にした人気作品”ちはやふる”の舞台となった府中。漫画の連載は2022年で終了しましたが、今でも府中市では定期的に”ちはやふる”を取り上げたイベントが開催されています。

ちはやふるキーワードラリー・パネル

 府中市観光協会の動画で”ちはやふるの聖地”が紹介されています。ナレーションは実際にアニメ”ちはやふる”で綾瀬千早役を演じた瀬戸麻沙美さん。

 府中市は千早と太一が住んでいた街で最寄駅が分倍河原駅でした。千早が競技かるたにのめり込むきっかけになった市立文化センター。モデルになったのが片町文化センターです。

分倍河原駅
府中市立片町文化センター
片町文化センター・ちはやふるデザインマンホール

 小手指原・久米川を突破した新田義貞軍は分倍河原で一度は大敗。敗走の翌日に奇襲を仕掛けることで新田軍は多摩川を突破します。この時、新田軍の本陣が置かれた見性寺が現在の高安寺。分倍河原は足利尊氏と新田義貞ゆかりの場所なんですね。

分倍河原古戦場碑
高安寺・本堂

 DoechiiがKodak Blackとコラボした曲 ”What It Is"。少しメロウな感じのメロディラインがいいですね。この曲は1999年のTLCのヒット曲”No Scrubs"をサンプリング。言われてみれば確かにそうですね。結構うまくサンプリングされているので最初は気づきませんでした。

 " What it is, ho? What's up?(どうよ、調子どうなのよ)Every good girl needs a little thug(いい子ちゃんには悪い男が必要)Every block boy needs a little love(やんちゃな男の子には小さな愛が必要)”。Doechiiはなかなか上手いですね。Kodak BlackのRAPとうまく絡み合ってます。MVでのDoechiiのダンスにも注目。

 元ネタのTLCの”No Scrubs”。DoechiiのダンスはかなりTLCを意識してますね。

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