見出し画像

昭和のサーフィン物語 6

40年前の河原子ビーチ・・・

当時のサーフィンは『アウトロー』なスポーツだった。

オリンピック種目になるなど誰も考えていなかっただろう・・・
いろんな危ない若者達が集まっていたのである。


田中君もその1人だった。

彼は20歳をちょっと越えたばかりで まだ若かったが 町金融(サラ金)の集金係をしていた。

集金係と言えば聞こえはいいが 単なる借金の取り立て屋である。 

あの頃は今のように法律で厳しく取り締まられて無く 犯罪スレスレまで相手を追い込むのは当り前で、場合によっては一線を超えることも有ったという・・・
そんな田中君であるから 職務上(!?)肩から背中にかけてモンモンが入っていた。

確かフルカラーのライジング・ドラゴンの図柄が入っていたような気がする・・・
相手が開き直った時には その「モンモンを見せてビビらせる」と言っていた。

もしかしたら あの頃には 完全に『あちら側の世界の人』だったのかもしれない・・・
そんな彼の事だから 海の中でも威勢が良かった。

知り合いのサーファー同士なら問題ないのだが ビジターサーファーが調子に乗っていようものなら 『前乗りする しない』に係わらず すぐに「上がれ~!!」と怒鳴るのだった。
ホーガンさんのように 何も言わずに殴りかかるということはしない代りに 彼独特のやり方が有ったのである。

波打ち際まで行くと すぐにウエットの上半身を脱ぎ始めるのであった。

知り合いのサーファーは 田中君の「上がれ~!!」が響くと みんな「おっ また脱ぐぞ!!」とニコニコしながら見ていたものである。

そして 見事なドラゴンを相手に披露し 「参りました!!」と言わせるのが彼のやり方だった。

『水戸黄門』と『遠山の金さん』が圧倒的な人気を誇っていた昭和では それで大抵のヤツは戦意を喪失したのであった。
葵の御紋とライジング・ドラゴンには弱かったのである。
ぶひょ!

今では 芸能人までがオシャレの一つとしてタトゥーを入れているが、昭和の時代は 『あちら側の人と その関係者』しか絶対に入れないモノだった。
この世界で生きて行く!』という覚悟を決めた者だけに許された象徴だったのである。

そんな遠い昔の昭和も終わり 30年以上になる。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?