翌日は東京に出張するため、彼は昼前にオフィスを出た。１１月の東京の街は、どんよりとした雲に覆われていた。道往く人々の姿は普段と変わりがないのに、低く垂れこめた雲が、今の彼の気分を反映しているようだ。まるで、世の中から自分だけが取り残されたような顔をして、足元を見つめながら、とぼとぼと歩いている。

    彼は、昨日のことはできるだけ考えないようにしているみたい。わたしにはよくわかるの。そうしないと、不安がどんどん膨らんでしまうから。
    でも、そうしようと思えば思うほど、一つの疑問に意識が集中してしまうの。それは、あと何年生きられるかということ。がん患者さんのだれもが抱く疑問。
   彼は昨日のお医者さんの話から、がんであることは疑いようがないと覚悟はしているけれど、問題は転移があるかどうか。どこにどれだけ転移しているかで、これから先の余命が決まってしまうから。

    それにしても、なぜ自分ががんになったのか不思議に思っているの。がんの告知を受けた患者さんはみんなそうだけれど、健康には人一倍気をつけていた彼は余計にそう思うみたい。だって、去年まで、健康診断はまったく問題がなかったのよ。

    最近は血圧が少し高めだったから、それには気をつけていたわ。毎晩、寝る前に、酢を水で薄めて飲んだり、毎朝、グレープフルーツを食べたり、野菜サラダには必ず玉ねぎを細かく刻んで入れたりしていたの。
    バランスの取れた栄養、十分な睡眠、適度な運動という健康維持のための三原則を、彼ほど忠実に実行している人もめずらしいと思う。

　運動は毎日欠かさずにやっている。朝のラジオ体操を日課にしてから、もう５年になるらしい。
    自宅のマンションでは、エレベーターには乗らずに、１１階まで階段を使っている。
    通勤では電車にもバスにも乗らず、毎日、往復８０分も歩いているの。それだけじゃないわ。週１回のテニススクールに通い始めてから、かれこれ２０年になるというから驚きね。

    お酒は、毎晩、３５０ミリリットルの缶ビールを１本。しかも、糖質ゼロ、プリン体ゼロの発泡酒。
    最近はお酒が過ぎると、二日酔いになるみたい。以前は、昼までには回復していたのに、この頃は、夕方になっても頭痛が残ると、さかんにこぼしている。飲み過ぎないように気をつけているのに、酒好きのお友だちと付き合うのも大変よね。

    タバコは昔から吸わない。学生時代にはいたずらで吸ったこともあるようだけど、すぐにむせてしまい、こんなものをどうして吸うのかと不思議に思ったとか。
   他人が吸っているタバコの煙には、今でもずいぶん迷惑しているわ。受動喫煙っていうのよね。
    昔は、オフィスは禁煙じゃなかったから、ひどいときは煙で１０メートル先も見えなかったという。今では考えられないことだわ。あまりのひどさにたまりかねて、彼は真冬にオフィスの窓を全開したことがあるらしい。「寒い！」とみんなから一斉に文句を言われたけれど、空気が完全に入れ替わるまで、絶対に譲らなかったそうよ。
    煙草を吸わない自分がなぜ肺がんになるのかって、ほんとうに悔しそう。

    でも彼は、それも仕方のないこととして受け入れようとしているの。人には持って生まれた寿命があるから、いくら医学が発達しても、生物としての限界を超えて生きることはできないと考えているの。
    人間にできることは、生まれたときから定められた時間を、余すことなく生きることだけ。そのために、普段から健康に気をつけたり、事故や災難に遭わないように用心したりすることは大事だけれど、それでも病気や災難に遭ってしまったら、それは運命として受け入れるより仕方がない、と彼は言うの。

　命あるものには、いつか必ず死が訪れる。生と死は一体のもの。生があるからこそ死があり、死があるからこそ生がある。永遠の生は、人間の思考の産物でしかありえないと、彼は言うの。わたしには難しくて、よくわからないけれど。
   そう考えると、死は早いか遅いかだけの違いね。だから彼は、確定診断でがんと宣告されても、それを運命として受け入れようと思っているの。持って生まれた寿命いっぱいまで、今までどおり生きる努力を続けていこうと覚悟を決めているの。
    そんな風に考えられるなんて、すごいな。

    彼は夕方、帰宅してから、入院中のお母さまを見舞いに行った。お母さまは、

「今日は痛くないの」

    と言って、やさしく微笑んでいる。とても８６歳とは思えないほど若々しくて、素敵なお母さまね。まるでマリアさまのよう。
    お母さまの体の中にも、わたしの仲間がいるなんて、とても信じられない。
    でも、やっぱりいるのね。最近、痛みがひどいときは、定時のお薬のほかに、オキノーム散という医療用の麻薬も飲んでいるの。痛み止めも、だんだん強いものに変わっている。このまま痛みがひどくなると、最後はモルヒネを使わないといけないみたい。
    わたしのお仲間さん、お願いだから、マリアさまをいじめないでね。

    お母さまと同じ肺がんになったかもしれないと思うと、彼はいたたまれない気持ちになるみたい。お母さまの顔を見るのがとても辛そうで、わたしまで悲しくなってしまう。

「外は寒いから、風邪をひかないようにね。体には気をつけなさいよ」

　病気のお母さまからそう言われて、彼は返答に困っていた。お母さまにはまだ、健康診断の話はしていないの。そのうち見舞いにも来られなくなるかもしれないと思うと、胸が詰まってしまうのね。
    まだ死ねない、自分が先に死ぬわけにはいかないと、必死に自分に言い聞かせているの。　
    お母さまに気づかれないように、そっと涙を拭っている彼を見ていると、わたしは今すぐにでも消えてしまいたい気分になる。
   キング、ほんとうにごめんなさい。

    健康診断から二日目。彼の気分はだいぶ落ち着いたみたい。今朝も歩いて出勤。今年はいつまでも暑くて大変だったけれど、季節の移り変わりは速い。大通公園では、大きなクスノキの緑の並木に、赤や黄色の紅葉が鮮やかな彩を添えている。秋の柔らかな日差しが気持ちいい。
    それなのに彼は、来年もこの紅葉を見られるかな、なんて考えているの。歩いているうちに、だんだん顔が暗くなっていく。
    キングったら、もう！　でも、仕方ないわね。

　今日は、東京で会議があるらしく、彼一人を残して、社員はみんな出かけてしまったから、もともと静かなオフィスは、不気味なほど静まり返っている。電話もかかってこないし、例によって彼は暇そうね。何もやることがないのかしら。
    わたしも働くなら、こういう会社がいいな。でも、いくらなんでもこれじゃ、給料泥棒って言われちゃうわね。
    でも彼は、前の会社では、退職するまでずっと忙しかったらしいから、このくらいでちょうどいいのかも。人生には緩急があってもいいのよね。

    彼は昼間は暇なのに、夜は忙しいのね。昔、「５時から男」なんて言葉が流行ったようだけれど、彼も夕方から飲み会だって。よく飲む気になれるわね。わたしだったら断ってしまうわ。ほんとうは、彼もそうしたかったらしいけれど、これまで何度も調整して、ようやくこの日と決まったようだから、さすがに彼も断れなかったみたい。
    今日の飲み会は、前の会社の部下が声をかけてくれたらしい。たいていは退職した途端に、現役の社員とは飲む機会がなくなるらしいから、こうして今でも声をかけてくれるのは、やっぱりうれしいでしょうね。

    その部下とは東日本大震災が起こった年に、一緒に被災者支援の仕事をしていた。部下は以前から人の役に立てる仕事をしたいと希望していたから、被災者支援の仕事には人一倍意欲を燃やしていたようだわ。
    でも、張り切り過ぎて心のバランスを崩してしまい、そのあと長い間、休職を余儀なくされたの。彼は上司として、そんな部下をきちんと見てあげられなかったことを、ずっと後悔していた。

    そんな部下が、今日は婚約者を連れてきた。彼女はもの静かで、パートナーをしっかりサポートするタイプだわ。部下にもマリアさまのような素敵な女性が現れたのね。
    すっかり元気になった部下を見て、彼はようやく安心したみたい。

    若いカップルはいいな。わたしにも早く、素敵なパートナーが現れないかしら。
   え？　キングがいるじゃないかって。
   だめよ！　彼には奥さまがいらっしゃるもの。悲しいけれど、彼にとってわたしは、迷惑な存在にしか過ぎないことはよくわかっているわ。

   この居酒屋はサラリーマン相手にしては、料理がおいしそう。活け造りのお刺身が、テーブルの真ん中にどんと置かれている。彼は安心したせいか、さっきからマグロやタイやイカを、せっせと口に運んでいるの。まさか、もう二度と食べられないとでも思っているのかしら。
    せっかくのご馳走だけれど、タンパク質はわたしの口には合わないわ。　
    あれ、彼の目が潤んでいるわ。なんだかすごく人恋しそう。ひょっとしたらこの先、彼らとも会えなくなるかもしれない、なんて考えているのかしら。
    キングったら、もう！

（つづく）

次回はこちら。
第3話「ドクター・エッグ」