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【人生最期の食事を求めて】古本とカレーの街で唐突に出逢う四川麻婆豆腐。

2024年1月27日(土)
四川料理 川国志 神保町店(東京都千代田区神田神保町)

JR総武線とJR中央線とが擦過する轟音、学生たちの弾むような歓声が御茶ノ水駅の真新しい駅舎に反響していた。
昔の御茶ノ水駅と言えば、現政権政党と結託した怪しい勧誘者や手をかざす不審人物たちが其処此処に跋扈していたものだが、もう一掃されて地下に潜ったのだろうか?

JRお茶ノ水駅から望む
JRお茶の水駅

1月とは思えない強い日差しがそんな不意の想念を打ち消した。
私にとっての御茶ノ水と言えば、やはりギターショップと山の上ホテルだろう。
1970年11月25日に自決した三島由紀夫、2023年11月24日に逝去された伊集院静といった昭和から現代に至って名だたる文豪たちが愛したホテルが休業に入るという。
それは時代の変遷ゆえに致し方ないことだが、『いつかは私も山の上ホテルで原稿を書く』という妄念は遠のいたことは確かだ。

他方、ギターショップを覗くと円安や資材の高騰の影響によって高額化していることをこの目で見た。
インフレとはいっても、憧れのギターはもはや憧れを超えて幻想のような金額にまで跳ね上がっていた。
山の上ホテルの休業とギターの高騰という現実は、どこか私を上空に広がる青空のように名状しがたい爽快感を宿した諦念をもたらしたのだ。
昔の面影の消えた明治大学の本部と横目に、昼下がりの坂道を下っていった。
神保町のあちらこちらで飲食店の前で長蛇の列ができるのは、御茶ノ水との違いかもしれない。
ただ、うどん屋に並ぶ大行列を直視した時はさすがに辟易とした感情が横切った。
もちろん、この街の象徴であるカレー店など確認することすら無駄な時間だろう。
坂道を下った際の爽快感を宿した諦念とは別種の暗澹たるものが私を支配し始めていた。

この街と私の関係は古い。
しかし、カレー屋や洋食店は隆盛を極め、通い慣れた天丼屋は消え、三省堂書店は新築工事に入り、古本屋はシャッターを降ろす。
まさに時代の変遷と駆逐があからさまに可視化しているようだ。
神田すずらん通りに抜け、天丼屋に辿り着こうとしてもインバウンドの群衆が列が私を阻んだ。
出版社のビルが連なるエリアに向かうと、私の暗澹とした諦念にひとつの希望を導くような誘導看板が目に入った。
その誘導に従ったのだが、ランチメニューと小さな看板だけが目立ち、店の在り処は一瞬判然としなかった。
店はどうやら地下にある。

四川料理 川国志

「イラシャイマセ」男性スタッフの甲高く辿々しい日本語が店内に響いた。「アイテル席ドゾ」ランチメニューを見ると、決め難いラインナップが私を困惑させた。
選択肢は多いほど人は迷うのだ。
決定の手がかりは黄色い丸印と赤い文字である。
しかも“名物”とある以上、私の中で迷いはすぐさま立ち消えた。
「名物のマーボー豆腐定食を大辛、ご飯大盛りでお願いします」
と私は張り切っている自分に気づきながら男性スタッフに伝えた。
この店の名は、『川国志』と書いて『せんごくし」と読むらしい。
古代中国の史書「三国志」に描かれた魏・蜀・呉という中国三国時代にちなんでいるに違いなかった。
さらに四川料理の代表と言えば、私にとって麻婆豆腐は抜きん出た存在と言いたい。
私の口内だけでなく、私の全身も、さらには精神まで強烈な山椒によって痺れさせてほしい。
そんなマゾヒスティックな願望が芽生えてさえしまうのだ。

「オ待チドサマ!」
男性スタッフの大きな声は、私の密かな願望を撹乱するかのように私の目の前で響いた。
赫灼と照り輝く赤と真紅のおどろおどろしいグラデーションに、私の食欲はすぐさまその中で溺れる夢をもたらす。
ためらいなどどこにもない。
徐ろにスプーンで持ち上げ、口へと運んだ。
でもどうであろう、その燃えるような色合いとは裏腹に穏やかな辛さが唇にまとわる程度だった。
期待を裏切る痺れにうなだれながら食べ進めていくと、私の身体は知らず知らずのうちに汗ばみはじめ、喉元から食道にかけて独特の熱を帯びた。
金融用語で言う“ゆでガエル理論”とでも表現するべきだろうか?
戦争でいうなら、奇襲攻撃ではなく地を這うような“ゲリラ戦”の泥沼に足を踏み入れていて、すっかり敵の術中にはまってしまうようなものだろうか?
平静を保っていたはずなのに気づかぬうちに痺れと辛さという囮に包囲され、その奥底に潜んでいる旨味にライスを求め、水を願い、終いには大盛のライスはいともたやすく消えてしまった。

マーボー豆腐定食大辛(900円)

四川料理の深みから脱するべく、私は杏仁豆腐に手を伸ばした。
それでも汗はなかなか止まろうとしない。

汗が引かないまま地上に出ると、四季を忘れてままの午後の日差しが私を襲った。
真冬の寒さを忘れた季節は、私を汗をとめどなく催促しているかのように思えてならなかった。……

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