Geric Plankton_ゲリック・プランクトン

奇考士・奇文家 2022年3月に広告会社を退職。同年4月起業。 既存の枠組みに捉われ…

Geric Plankton_ゲリック・プランクトン

奇考士・奇文家 2022年3月に広告会社を退職。同年4月起業。 既存の枠組みに捉われない職業を目指して奇妙なことを考える奇考士(きこうし)、または奇妙なことを書く奇文家(きぶんか、きぶんや)を自ら命名、活動中。 また、“知足利他”をモットーに極少の所有で極上の幸福を追求中。

マガジン

  • デジタル書道作品集

    朝の日課として続けているデジタル書道作品集。 禅語や道元の名言、著名人の格言等、 心に静謐をもたらす言葉の数々を記録する。

  • 人生最期の食事を求めて

    【人生最期の食事を求めて】 この1回限りの人生において、A級・B級の分け隔てなく美味しい食事と幾度と出逢うのであろうか? そして、いつ来るとも解らない死の直前に何を選ぶのだろうか? 雄叫びを上げたくなるほどの、膝から崩れ落ちるほどの、涙が出るほどの食感動。 この記録は、究極の選択の模索と探求の試みである。 あなたなら人生最期の食事は何か?

  • 人生の道端微録。

    引き際。 スポーツ選手の引退の際にしばしば用いられる言葉である。 そこには、人それぞれの人生の価値観が反映する。 会社退職、それは引き際かもしれない。 が、新しいステージを切り開く可能性でもある。 誰もが期待と不安の中で生きるならば、あえて不安を選択する人生を選ぶ。 そんな心の吐露を思い思いに語る。

  • マイ・ミニマリズム〜極少の物で、極上の幸福を。

    現代に溢れかえっている物・物・物。 果たして、物は生活を便利に上質にすることができても、人間を幸福にすることはできないのではなかろうか? そんな疑問から、「マイ・ミニマリズム=極少の物で、極上の幸福を。」をテーマに日々模索する経過を記録する。

最近の記事

    • 緑水繞青山

      • 東山水上行

        • 【人生最期の食事を求めて】寿司王国金沢に潜む期待という名の幻想。

          2024年4月20日(土) まわる寿し もりもり寿し近江町店(石川県金沢市近江町) 古いデータになるが、総務省が2015年に公表した「平成26年経済センサス」 によると「人口10万人あたりの寿司店の数」トップ5は以下の通りになっている。 第1位 山梨県 第2位 石川県 第3位 東京都 第4位 福井県 第5位 静岡県 海のない山梨県が第1位というのは、しばしばマスメディアの紋切り型の情報ソースになっているため説明は不要だろう。 その他は順位はともあれ順当な都県の名が連ねている

        マガジン

        • デジタル書道作品集
          306本
        • 人生最期の食事を求めて
          93本
        • 人生の道端微録。
          3本
        • マイ・ミニマリズム〜極少の物で、極上の幸福を。
          3本

        記事

          【人生最期の食事を求めて】若さと活気と品格が共存する北陸再興の灯火。

          2024年4月19日(金) 居酒屋花組(石川県金沢市木倉町) 2024年1月1日(月)。 定刻を15分程遅れで出発した飛行機はあの能登半島地震によって小松空港に着陸できず、余儀なくセントレア中部国際空港に回避した。 その記憶を拭い去れないままに、私は再び飛行機に搭乗した。 飛行機に乗っている時もしばしば脳裡をよぎるのは、あの地震の再来だった。 無事に小松空港に到着した時、私は大きな安堵に包まれた。 北陸鉄道バスに乗り込み、約1時間で金沢駅前に到着した。 そこには金曜日の夕

          【人生最期の食事を求めて】若さと活気と品格が共存する北陸再興の灯火。

          【人生最期の食事を求めて】魚とおでんと店の喧騒に飲み込まれる片町の夕刻。

          2024年4月20日(土) 金沢炉端あっぱれ金沢片町店(石川県金沢市片町) ひがし茶屋街の一角から三味線の音がそこはかとなく耳に届いたかと思うと、町家の玄関の庇に巣を作った燕が頭上をかすめた。 欧米系の外国人観光客の姿が見受けられたものの至って少なく、ある意味で心地よい閑散具合と思えた。 午前中のひがし茶屋街は思いのほか平穏としている。 統一感を保った外観はもちろん色彩にも統一感の配慮がなされ、和の伝統の趣を保ち続けている。 幻想文学の急先鋒的存在の小説家泉鏡花、純真な心

          【人生最期の食事を求めて】魚とおでんと店の喧騒に飲み込まれる片町の夕刻。

          殿閣生微涼

          【人生最期の食事を求めて】大混雑の仙台牛たんの代表格に挑む正午。

          2024年4月15日(月) たんや善治郎仙台駅前本店(宮城県仙台市青葉区) 昨日の昼に食したマーボー焼きそば。 それはそれとして宮城県屈指のご当地グルメとして名高い。 けれどもその時、あまりの行列で断念した牛たんへの振り払いがたい誘引は、起床早々から私につきまとうばかりだった。 思えば本格的な牛たんを食べた記憶は、知り得るかぎり2005年と記憶する。 その際の地を転覆するかのような衝撃と感動。 そして予期せぬ仙台での暮らしとともに深まりゆく牛たんの奥義の探求。 きっと私の

          【人生最期の食事を求めて】大混雑の仙台牛たんの代表格に挑む正午。

          【人生最期の食事を求めて】深みのあるたまり醤油が織り成す中華そばの妙。

          2024年4月14日(日) 末廣ラーメン本舗仙台駅前分店(宮城県仙台市青葉区) 急な会食を終え解放されたのは21時を過ぎた頃だった。 日曜日の深い夜に包まれつつある仙台駅前は、それでも多くの人々が交錯していた。 このまま帰るのも気が引ける。 と言って、もう少しだけアルコールに身を浸すのにも気が引ける。 名掛丁のアーケードから仙台駅に向かって押し寄せる人の波を避けるように、駅前通から広瀬通に抜けた。 このまま直進して愛宕上杉通を抜ければ国分町なのだが、もう少しだけアルコールに

          【人生最期の食事を求めて】深みのあるたまり醤油が織り成す中華そばの妙。

          【人生最期の食事を求めて】麻婆焼きそばとバナナ餃子に漲ぎ溢れる迫力。

          2024年4月14日(日) 口福吉祥 囍龍(シーロン)(宮城県仙台市青葉区) 駅前のアーケードに降り注ぐ日差しは季節を飛び越えて初夏を装い、所々の公園や庭先には満開の桜が咲き乱れ、行き交う人々の面持ちには春の解放感がもたらす喜色が浮かんでいるように見える。 兎にも角にも心地よい日和としか言いようがない。 11時になろうとしていた。 午後に備えて少し早めの昼食を求めた。 駅前の牛たん屋の様子を伺うために足を伸ばしてみると、途轍もない列がうねっている。 あのうねりを目撃すれば

          【人生最期の食事を求めて】麻婆焼きそばとバナナ餃子に漲ぎ溢れる迫力。

          山青花欲然

          江碧鳥逾白

          【人生最期の食事を求めて】幾度となく訪れてしまうごまさばの誘惑。

          2024年3月23日(土) 博多ごまさば屋(福岡県福岡市中央区) 中洲のバーでマスターと深夜3時頃まで話し込み盛り上がったしまったせいで、この日はまさしく寝不足だった。 といって、福岡で過ごす時間は限りある。 朝から時折強く降る雨と寝不足の冴えない思考のせいか、食欲はあるものの昼食に対する開拓力がどうしても芽生えようとしなかった。 しかも昨日同様に博多駅の人混みは雨であろうが著しい。 昨夜、どの店に行っても満席で入店できなかった記憶が蘇る。 うどんであろうが、天ぷらであろう

          【人生最期の食事を求めて】幾度となく訪れてしまうごまさばの誘惑。

          【人生最期の食事を求めて】彷徨の末の屋台、という予定調和的着地。

          2024年3月22日(金) 風来けん坊(福岡県福岡市中央区) 大濠公園エリアから天神エリアに移動した。 日中の晴れ渡った空も気がつけば重苦しい雲に覆われ、今にも雨が降る気配だった。 時折過ぎ去る暴走族の滑稽なアナクロニズムをものともしない溢れかえる群衆と活気に包まながら、歩き慣れた道を歩き続けた。 目指した店は、福岡に訪れた際に必ず訪れる屋台バーだった。 直近の訪問において、2回連続して満席で入店することのできなかったことへの雪辱といった想いが私の足を急がせた。 屋台バー

          【人生最期の食事を求めて】彷徨の末の屋台、という予定調和的着地。

          【人生最期の食事を求めて】入念と洗練を尽くした焼鳥への想い。

          2024年3月22日(金) 炭焼き とりこ(福岡県福岡市中央区) この国の人口減少問題は今に始まったことではないが、政策が後手に回っているうちに手遅れ感が否めない。 けれども、福岡に関して言えば地理的要因や様々な施策によって、もはや人口増の を継続しているのはまさにこの街のポテンシャルを活用した結果と言えるだろう。 いざ現地に降り立つとその実感は揺るぎない。 長崎駅から博多駅に到着したのは15時近くだった。 午後の博多駅は人々の交錯は凄まじく、そこから発する活気は東京や大

          【人生最期の食事を求めて】入念と洗練を尽くした焼鳥への想い。