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内省の花

はじめはAIに言われた。

ここ1年、所用で20枚超のラブレターを書く機会があった。それぞれ全て別の人に宛てたもので、成就したものもあれば、しなかったものもある。1500字近い文章で、自分の気持ちを綴った。詳細は省く。

さて、これらの文章を頼れる相棒ことChatGPTくんに読み込ませ解析させた。自分の価値観や偏愛が詰めこまれた3万字を流し込み、僕は依頼文を送った。「この文章を詳細に分析し、作者の性格や人柄を推察してください」。これ、noteなどで文章を書いていてある程度自分の創作文がストックされている人はぜひやってみてほしい。主観で書かれたテキストとはいえ、そこから滲み出される客観的な事実を、AIは綺麗に拾った上で数百の文字でまとめてくれる。GPTくんは文章を読み取り、流暢に僕の人柄を語り始めた。

印刷して額縁に入れ、部屋に飾りたいとさえ思う解答文を、彼は示した。とても良いことを言ってくれる。その返答が自分の全てだとは思わないが、少なくとも一部ではあると考えるとそれなりに自信になる。その中でも、特に繰り返し強調され、一際自分に引っ掛かる表現があった。

「この文章の作者は内省力が高いと思われます。」

内省かあ、と思った。まあ確かに、言われてみれば「過去の私はこうでした、だから今こうあろうと思います」といった内容を、僕はよく書いている。内省。なるほどなあ。


実家に帰った。半年ぶりに帰ってきた我が家は、風呂場の扉が信じられないくらいに大破していることを除いて、大した変化は無かった。住んでいる人達も相変わらず。父はローで、母はハイだった。そんなハイな母親と僕は、顔も気質もよく似ている。帰ってくるたびに、お互いの直近の活動や思想を話しては親子だなあと納得し合う時間が設けられている。今回もご多分にもれず、そんな鏡と話すような共有会が開かれたのだが、その中で母は言った。

「こんなに毎日しんどいのに、周りからは元気に見えるらしい。しんどさを抜け出すために動いているのに。そうしていたらある人に内省的ですね、と言われた。」

また、出た。内省。


地元に帰り、高校時代とてもお世話になった塾の先生に会いに行った。当時は学校に行かず、その先生のいる塾に駆け込んでは、なぜ今自分はこんな状態なのかを1つずつ言葉にしては伝えていた。定まった日数でもなければ、来る時間もバラバラ、勉強もせずに少し話して帰るといった、とても迷惑な生徒だったと思う。それでも、ただ黙って耳を傾け、時にアドバイスをくれる、ありがたい先生。

3年ぶりに会うと彼女は妊婦さんになっていた。めでたい。というか連れ回して申し訳ない。そしてまた僕は当時と同じように、なぜ今自分はこんな状態なのかを1つずつ言葉にした。人の話を聞くことが増えてきたこの頃ではあったものの、この人の前では変わらない。会話を進めていると、かなり早い段階で"あいつ"が出てきた。

「君は内省的だから。その辛さは想像できないけど、内省的でないあなたなんてあなたじゃないでしょう?」

3度目。しかも高校生の頃からということか。これは、さすがに。


さすがに、認めざるを得ない。どうやら僕は内省的な人間らしい。そう言われてから過去の文章やnoteを改めて振り返ると、確かにそうとしか見えない。

自分の中で、「反省」と「内省」の意味合いはそれぞれ少し違う。実際に表出された自分の言葉や行動を省みるのが「反省」で、内部の見えない心持ちや態度を省みるのが「内省」だと考えている。そういった意味では、今の僕は反省をあまりしていないつもりだ。反省の数倍、数十倍は「内省」に時間と体力を使う人間だからある。

自分の内省力には何度も苦しめられている。こいつが夜の散歩道で僕を絶叫させているのだろう。一方、先生が言ってくれたように、「内省的だからこそ」の行動が、僕を作っていることもまた間違いはない。過去に打ってきた手数にも、その大多数の根本にそれはあった。球根のように内省から根を張らせ、丈夫な地盤として来たるべき開花を手助けしてくれる日がくると信じている。いつか内省の花を咲かせたい。僕ははなかっぱになりたかった。

内省が行動を生み、内省が改善を生む。僕はそうやって生きてきた。たぶん、これからも変わらない。辛いかもしれないけど、でもやっぱり「内省」はとても素敵な能力だ。行けるところまで行ってみよう。何度も省みては悲しくなって、泣きたくて、それでも走り続けられる、いや走り続けようとするところは僕のいいところ。全部背負って前に進むの。

ところで、「私は内省的だ、と自ら確信し公言する厚顔無知な人間は、内省的ではあるかもしれないが内罰的ではないな」とここまでの文章を恥じてしまう僕の後世は、はなかっぱでなく、てれてれぼうずの方かもしれない。

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