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失敗を嫌う罠

いつもボケた写真でぼんやりした話を書きますが、今日は先日「無理やり行ってきた家族旅行」で撮った朝の素晴らしい景色。

昨日あたりに書いたツイート(今なんていうの?)のこと書きます。

長いと省略されんのか。コピペしとく。

昔多摩美の講評会である先生が「みんな、こういうのが正しいのかなという感じで喋ってる。そういうのは良くないよ」と言ってた。

これ、ありがちだよなーって思う。でも難しいこと。

仕事でも、「クライアントはこれを求めてるのかな?」と流れに沿わせようとしがち。

みんなで仮想の枠を作って、枠の中にとどまろうとする。怒られたりするのやだからだと思う。

ビビってたらだめだな。

子供たちをみてもある

「失敗したくない、不正解やだ」って気持ちは、子供の頃からあるっぽい。

ゲームとかでさえ「これ、あってる?」と実行の前に確認してくることがある。

「やってみりゃいいじゃん」

というと「教えてよ、ケチ」みたいな表情になります。

大人でもある

会社のスタッフでもある。「これでいいですか?」とかよく聞かれる。いや、報告したり相談したりってのは、仕事の基礎なんでそれは必要なこともある。大筋はやって欲しい。でも、聞かなくても自明でしょってこともある。

「この仕事は任せたよ」

と言った直後に「これでいいですか?」と聞かれたら「ん?」ってなるかも。事後報告でいい。それで怒られたとしても、それが正しい。自分の成長のためには。

失敗は必要だしビビるな

まず、これ。失敗しても許されるシチュエーションはあるので、そこは自分の考えが合ってるかどうか試してみたらいい。失敗を未然に防ぐために誰かに確認すると、結局また同じことを質問することが多い。記憶に刻まれないんだと思う。失敗したら学ぶ。

空気を読みすぎる

例えば、仕事でもあるんだけど、なにか発言をしないといけない時「多分この場ではこういうことを言うのが期待されてるだろうな」と言う忖度にも似たある種の予想みたいなことをして発言することはある。

でも「あなたの感想を聞かせてください」みたいな時にそれやっちゃうと、誰の意見でもない、仮想の正解を元に導かれた嘘の意見を喋ってることになっちゃう。

そもそも、人間の脳は大規模言語モデルみたいなもので学習してるので、シチュエーションに合わせて無思考で返事するみたいな芸当ができてしまう。無思考の思考みたいな。

企画する時にもある

例えば、何かを企画するときも、「多分このようなケースだとこうするのがあたりだな」とありがちな企画を導くことはできます。

ある意味順目になでなでしてたらそう言う企画はできる気がする。それが必要なこともある。結構ある。そう言うのを期待されてること。結構そればっかり。

最近は何か独自性をを期待して依頼されることが増えてきたので、その作戦は逆効果。

新しい価値を生み出したいときは、あるあるネタじゃなくて、見たことない価値なんですから、そんな導き方では出るわけがない。無思考の思考は期待せずに、自分なりの拠り所を探して試しながら積み上げていくしかない。

ルールを破る

昔聞いたことがあるのは、映画監督の岩井俊二が「ifもしも」の作品を作る時の話。

ifもしもは、ドラマシリーズで毎回若手の監督が担当して短編のドラマを作るのだが、決まったフォーマットがあって、それのルールを守って作ることになってる。

主人公がある行いをして、「もし、あの時あっちの選択をしたなら」と振り返り、逆再生の映像みたいなシーンを挟み、その選択の逆パターンを描くというものだ。基本的には後者の方がハッピーと言うのが定石となってた。

だけど、岩井俊二さんは、ここをギリギリルール破ったみたいな見え方のことをしてきた。守ってると言えば守ってるようにも見えるが、破ってる気もするみたいな。

結果、そのドラマはヒットし、他のとは違う表現に見えて目立った。んだとおもう。

これなんていい例で、ルールを破りにきてると考えられる。期待されてる枠の中ではなくて、外なんだけど中に見えるよねーって顔してどんどん枠の外にいく。

みんながみんなそれだと困る

みんなそれやっちゃうとやばいわけですが、たまにそれやる必要あるよねって思うし、少なくとも忖度みたいな小さいところにまとまる思考は良くない。

と私は思う。

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