霊体のシエ

おろろろろろ

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最近の記事

近況

「そのままのあなたでいいよ」と言ってもらえたことは今までにあったけれど、「どんなあなたでもいいよ」ってのは初めて言われた。なんて深い肯定だろう。 前者は今の私…もう少し広く取るなら過去と今の私だけを許してくれるものだ。 現在の私と、その私を構成する今までの私。 なんなら、その中でも表出している私に限った許しで、裏で爪を齧っている私は認められないかもしれない。 しかし後者は違う。 今の私が抱える何もかもを許したうえで、これから変わっていくなかで生まれる未来の私さえもを受け入

    • 崩れないでくれよ

      キツネと葡萄なんだろうか。 不完全な家庭で育ったからこそ、今の私があると思うのは。 守り育てられて安心しきったような人を見ると、憐れみの念が湧いてくるのは。 ただ、これも心を守ろうとする仕組みが働いているだけであって、自然な考えなんだろう。 悪いことじゃない。重かれ軽かれ何かしらの傷を受けているのに、それを庇おうとする挙動を「みっともない」と笑い飛ばしてしまうのは、自分で自分の首を絞めるのと変わらない。 納得できないまま生きることは苦しい。 全てを口にし、周りを刺して暴れ

      • わたしのすべて

        ようやく、私の歪みの根に触れられた気がする。   ここ最近、愛着障害に関する本をひたすら読み進めていた。 はやくあの子達みたいに、あの人みたいになりたかったから。 岡田尊司『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』 …今回、自分のことを理解するきっかけとなった1冊だ。 その巻末に付属していた、愛着スタイルの診断表。 点数をつけていくと、不安型(相手が離れていくことを怖がり、過剰に繋がりを求める)と回避型(人との関わりを避けがちで、どこか冷めている)の混ざった、恐れ・回避型

        • 幸せひと齧り

          部活終わりにファミレス行って、店をぶらついてから別れた帰り道。 いつものように、2人と私の違いのことばかり考えながら歩いた。 鳥を見かけるたび撃ち落とす真似をするようなお茶目さは、うちの人間には無かった。 あるのは、愚痴と独り言と干渉と不幸自慢。 たまにある言い間違いで笑える程度だ。 私も親のご機嫌取りができるような優しい子供ではない。ひたすら全てを聞き流して、母は自分の話したいことだけ話す。 叔父はお年玉を寄越すだけで、他に会話はない。会うこともなくなった。そのおか

          どんどんやなやつになる

          世の中、無責任な者ばかりではない。 幸せな家庭の味を知っている人がいる。 温かく守り育てられた人がいる。 こんな赤の他人にまで、家族のように愛を分け与えてくれる人がいる。 そう知ってしまってから、私には余計釣り合わない気がした。友達も、あの人も。 ただ、奇跡みたいな心の歪みに賭けているだけだ。どうか、人に拒絶されたことがあってくれと祈るような思いで話している。 以前出かけたときに、こちらのテーブルへ近寄ってきた小さな子供を目で追っていた。 やはりこの人は目で語る人なん

          どんどんやなやつになる

          「みんな同じだよ」ってマジですか

          物や歌に罪は無いとわかりながらも、苦い思い出に浸かったそれを再び掬い上げたいとは思えなかった。 それでも、誰かが鮮やかに塗り替えてくれるのを待っていてもいいのだと、何気なしに春の歌を口ずさむあの人から教わった。 20年くらい生きるだけで、どうやら「真っ直ぐ愛されて育った人」に擬態する術を身に着けることができてしまうらしい。 他人に歩幅を合わせることができず、悪い意味で素直。無愛想やら何もかもを包括したうえで角を削り落とし、「猫のよう」と形容されることが多かった、かつての自

          「みんな同じだよ」ってマジですか

          ありのままじゃ無理今は

          不安を乗り越えるには「慣れ」が肝心だと、いつか言った。 あれは本当だけど、勧めるべきことじゃないのかもしれない。 実際、最近の私は誰かと外食するとき、ちょっとした定食まで味わって食べることができるようになってきた。 ここ数ヶ月、毎日のように人の輪の中に飛び込んでいたおかげだろう。 「これ食べてみて」と皿を差し出されたときも、以前は1口分つまむ手がガタガタと震えて、みっともないことこの上なかった。 それが、今じゃだいぶマシになったと思う。 身体がこわばって背が痛むこと

          ありのままじゃ無理今は

          今年も桜を見ました

          馴染みの公園に、一足早く桜が咲いている。 普段は人通りの無い並木道に、微笑みを浮かべながらスマホを掲げる人々が大勢。 その幸福の渦に呑まれるのが怖くて、私は裏道の方へと爪先の向きを変えた。 子供たちのはしゃぐ姿、卒業生と思しき学生たちの制服の黒、点々と見えるカメラの無機質な目。 それら全てを遮断すべく、うつむきがちに歩いた。そんな情けない私の視界にも、風に運ばれた花びらはちらちらと舞う。 幼い頃に聴いた歌の影響だろうか。 桜を語るとき、「桜の木は花が咲いたときしか振り

          今年も桜を見ました

          自演の癒し

          人に優しく生きれば報われる。 それに辿り着けずに足掻く人々に、かみさまは手厳しい。 …最近、私の周囲の人々の話を聞いて思ったこと。 いや、もしかすると、たんに彼らの人生における苦境が今訪れてるだけなのかもしれないけれど。ああきっとそうだ。 ここにも書けないようなボロ家で私が寒々と暮らしていた頃、彼らは床暖房付きの高級マンションに住んでいただけ。 それが今、逆転しただけ。それだけ。 私にも、じきに幸せの終わるときがくる。 人生まだまだ終わらないから。 そんなことばかり

          note2023

          きっといつか、罰を受ける日が来る。 幸せを浴びすぎた罰を受ける日が来る。 愛されることを望んだ罰を受ける日が来る。 もういっそ消えたほうが望みは叶うだろう。 そんなことは無い。 それはただ認知が歪んでいるだけ。 一緒にゆっくり治していけばいいよ。 あなたは幸せになったっていいんだよ。 そう、私はずっと、私とこんなやり取りがしたかった。 私は私のカウンセラーになりたかった。 現時点では、何ひとつ解決していないけれども。 散歩しながら考えるのは、似たようなことばかり。 疲れ

          無題

          私が心理系の学部に進みたかったのは、カウンセリングや精神病の知識をつけるためだ。身近な人の悩みを上手に聞けるようになりたかったのもあるが、いちばんは自分のためだった。 人に悩みを打ち明けても後悔することが多く、それならば自分で自分のことをきちんと聞けるようになってやりたいと思ったから。 そんな私にとって、昨日の授業は忘れられないものであった。 「社交不安障害」…人の目があったり、注目を浴びたりすることに強い緊張・恐怖感があり、それが日常生活に支障をきたすほどであること。