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愛と呼ぶには生ぬるい


 別に命令されたわけでもないのに、放課後の教室で一人、僕は勉強をしていた。得意科目の英語で、常にクラス一位、九十点以上を維持するために、必死だった。記憶力と注意力さえあれば結果がついてくるこの教科が、僕は好きだった。

 関野さんからラインが来たのは、仮定法のフレーズを狂ったようにルーズリーフに殴り書きしている時だった。「急にごめんね、英語教えてくれませんか!」と無邪気な文体が並んでいる。


 億劫だった。面倒臭い、うんざりだ、あまり関わらないでほしい、怖い、などといった嫌悪にも近い感情が、胸の内にねばりつく感じがした。僕は昔、関野さんのことが好きだった。

 一年くらい前の話だ。人生で間違いなく、一番好きだった。まず顔が可愛かったし、少し茶色がかった黒のセミロングがとてもよく似合っていた。ぽわぽわした雰囲気で、どこか危うさすら感じる彼女を僕が好きになるのは、当然と言えば当然だった。

 けれど、一カ月くらい続いていたラインを唐突に既読無視されてから、なんとなく彼女を避けるようになってしまった。嫌われたのだ、と自分で勝手に決めつけていた。

 それ以来僕は、とにかく何かで気を反らしたかった。ポケモンのレート対戦にのめり込んでいたのも、モンハンのギルドクエストにうつつを抜かしていたのも、とにかく何かに熱中して、彼女のことを忘れてしまいたいという想いからだった。そして、勉強にも打ち込んだ。良い大学に行けばその後の人生でも胸を晴れるだろうと思った僕は、とりあえず早稲田か慶應に行こうと決め、とにかく勉強した。どうでもいいことに集中していた方が、気がまぎれた。そのままでは甘すぎるカルピスの原液に水を入れるように、彼女の記憶をとにかく薄めてしまいたかった。


 教室に一人で入って来た関野さんは、少し気まずそうに笑って、「おねがいします」と小さな声で言った。彼女の一挙手一投足が、自分の中にある恐ろしい何かをくすぐり、目覚めさせてしまうような感覚があった。


 誰もいない教室で、真ん中の席に並んで座り、僕は関野さんに英語を教えた。このフレーズは大事だよ、とか、ここ覚えとけば英訳で役立つよ、とか、それらは本来自分だけが高得点を取るために、あまり人には教えないようにしていたものだったのだけど、関野さんに英語を教えてほしいと頼られて、僕はやっぱり浮かれていたのだろう、ほとんど全てを教えてしまった。

 そんな僕の気持ちすらも見透かしていたのか、彼女は不意に、頭をこつんと僕の肩に乗せてきた。心臓が跳ねる。思わず目の前にある、彼女の顔を凝視してしまう。

 そして、そのまま彼女は、流れに身を任せて、なだれ込むように僕に抱き着いてくる。おかしいな、こんな記憶は無いはずなんだけど、というところまで考えて、僕はおかしな点に気付いた。なぜこの子に抱き着かれているのは「現在」なのに、こんな記憶はなかったはずだ、と懐疑しているのか。まるで未来の僕が、あるはずのない過去の記憶を体験しているかのようだった。

 ぴぴぴぴ、と聞き慣れた音が聞こえ始めたのが、それとほぼ同時だった。規則的で、無機質で、しつこいアラーム音が、僕を不快にさせる。抱き着いていたその子と僕は、世界に呑まれて溶けあい、瞬く間に視界の全てが真っ白になる。


 夢か、と気付いた時には、僕の意識は既に現実に戻っていた。今まで見ていたはずの教室の光景が、見慣れた自分の部屋に変わる。

 閉じようとする目を無理やりこじ開け、スマートフォンの画面を見やる。アラームを止めた。既に13時を回っていて、深い水色の空と、漂う雲と、少し汗ばむ生暖かい空気が全身を覆っている。


 それはないだろ、と自分で自分に言いたくなる。結局何にもならずに終わってしまったあの子に、抱き着かれる夢なんて、それは、ないだろ。


 四限の授業に出るには、今すぐ起き上がって、顔を洗って、支度をしなければならない。何もやる気がおきない。胸の内に広がるのは、やるせない自己嫌悪と、抱き着かれた感覚を忘れまいと高揚する、心臓の鼓動だった。それらの感情を一度おさえつけ、眠気に抗って無理やり起き上がる。

 必死に勉強したおかげで、人に言っても恥ずかしくないくらいの大学には行けた。朝まで好きな事をして、昼に起きて大学に行くような、そこそこ自由な生活もできている。親はたまに就職のこととかで文句を言ってくるけれど、たぶん、良い親なんだと思う。

 なのに、なんだ、と僕は眉をひそめる。なんだ、この虚しさは。ハヌマーンの、幸福のしっぽの歌詞が頭の中をよぎる。初めて聴いた時はよく理解できなかったけれど、こういう気持ちだったのだろうか。


 中央線に揺られながら、僕は辺りを見回す。景色が濁流みたいに流れ去っていく。電車にいる誰もかれもが、スマートフォンを凝視している。少しでもぼうっとしていると、また眠気が襲ってきそうだ。

 そんな中で僕は、無意識の内に探していた。少し茶色がかった黒のセミロングで、友達とはしゃいでいる姿が可愛くて、立川が最寄駅だった、あの子を。期待なんて、していない。もしいたところで、何かあるわけでもない。それでも、あの時言えなかった言葉があったとして、今の自分なら言えるような気がしていた。謝りたいこともあるし、感謝したいこともある。楽観的かもしれないけれど、あの子はすごく優しいから、きっと何を言っても笑って受け入れくれると思う。関野さん。


車内アナウンスが流れて、僕は我に返る。乗り換えだ。今日も、見つからなかった。プンプンみたいに、電車のドアが閉まる瞬間に、あの子を見つけられたらいいのに、と不意に思って、こんな時でも漫画かよ、と自分ながら呆れてしまう。

自動ドアが開いて、生ぬるい風が入ってくる。流れに逆らうかのように、今日は僕も電車を降りる。




絵を描く頻度が上がる(かも)