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短編小説:来世

「古代のエジプト人はどんなに辛くても真面目に生きたのよ。なんでか分かる?」七瀬はそう言って飲んでいた紅茶を置いた。

「犯罪を起こせば罰せられるからじゃないか」

「それもあるかもしれないわ。他は?」

僕は少し悩んでから訊いた。「宗教的な何かかい?」

「宗教かどうかは分からないけど、古代のエジプト人は来世のことを考えていたの」

「来世のこと?」そう言って僕はコーヒーを一口すすった。

「うん。現世では環境などに恵まれなくても真面目に生きることで、来世では幸せになれると思っていたの」

「そうやって犯罪を抑え込んでいたのかな」

「どうだろう・・。そうやって自分を鼓舞していたんじゃないかな」窓の外を見て七瀬が言った。窓の外には絵に描いたようなルックスの良いカップルと、もやしのように細い大学生が歩いていた。

「自分を鼓舞・・・」僕はそう言って少し考えた。それはあまりにも辛く感じた。僕が古代エジプト人なら、来世に夢を見て現世で歯を食いしばれるだろうか。怪しい。逃げ出すかも知れない。でもどこに逃げればいいのか。電車があるわけでもないし、グーグルマップがあるわけでもない。

うーむ。古代のエジプト人は何をしていたんだろう。ピラミッドをずっと作っていたのだろうか。『来世では幸せになるんだ・・』と思いながらでっかい岩を持ち上げたのだろうか。その古代エジプト人が来世、そのまた来世と幸せな人生を送れていることを僕は願う。でないと可哀想だ。

僕は来世に期待しない。来世があるかどうか・・・といった科学的な話ではなく、現世でもっとあがきたかった。

「僕は現世で良い思いをしたいよ」

「小説家の話?」

「そうだよ」僕は大学3年生の頃に小説家を目指したものの、現在では物語を創作するようなことはしなくなった。小説家に憧れてから5年が経ち、社会の波に揉まれるなかで創造性やものを作る上での体力が徐々に失われていった。しかし文章を書くという行為は嫌いではなく、ライターとして東京の隅っこで細々と暮らしていた。僕の存在に気付いているのは仕事仲間と七瀬ぐらいだろう。

「書きたいなら書けばいいのに」七瀬が言った。

「物語を書くのが苦手なのさ。事実を小綺麗にまとめるのは得意だけど、空想の世界を形にすることがどうしても出来ない」

「じゃあ、今のライターの仕事は結城くんに向いているかもね」

「うん。だけど、あまり喜べないな」誰が作ったのかは知らないが『器用貧乏』という言葉がある。あれは僕のことだ。ホームランを打ったことはないけど、三振をしたこともない。だから味方からはある程度信頼される。

しかし一番大事な場面で、僕次第で逆転できるかもしれない場面で、僕は代打を出されだろう。そういうタイプだ。味方と観客に夢を見せることが出来ないような人間。点数をつけるなら68点。いや、65点。とにかく僕は、七瀬と付き合えていることが不思議なくらいパッとしない男だった。

「物語を作ったこともない私が言うのもあれだけど、結城くんは急ぎ過ぎなのよ」

「僕がかい?」

「まぁ、急ぐことは良いことだと思うけど、作品を早く仕上げようとし過ぎというか・・・」

「忍耐力がないのかもね」七瀬の言いたいことはなんとなく分かった。

僕は心のどこかで創作する行為を恐れていた。なにもない場所に言葉を使って世界を創り上げることが、こんなにも息苦しいとは思わなかった。息苦しい場所から逃げたくなるのも当然だろう。そして僕は逃げた。

逃げたっていい。逃げた先で新鮮な空気をめいいっぱい吸い込み、再度創作の世界に飛び込めばいいのだ。とても簡単なことだ。3時に食べるケーキを我慢するだけで体重は減る。それくらい簡単なことなのだ。しかし僕には出来なかった。

僕は残っていたコーヒーを飲み干し店内を見渡した。会話の弾んでいる奥様や仕事に追われてそうなサラリーマン。みんな来世のために今を生きているのだろうか。そんなはずはない。そんな馬鹿な話があるものか。来世に期待しているような人は1人もいない。僕を除いて。

僕はほんの少しだけ期待していた。しかしその期待は、風が吹けばどこか遠くへ飛んでいくだろう。

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