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魔境アラザルド10 風の峡谷①


 第一部 五王君


  三章 風の峡谷



    1


コルフィンは、急いでいた。

城内での瞬間転移はなるべくするなという主人の言いつけを守り、亜麻色の石の壁とコルク板を敷き詰め、その上に葡萄茶色の長い絨毯を張った長い廊下を足早に進んでいく。

「我が君、どちらへ!」

ぜいぜいと口から呼気を吐きながら、彼は後ろ姿の主人を呼び止める。
矢羽と弓を背負い、腰に剣を差し、土色のマントを付けた旅人の姿だ。
まだ髪色を変えていないところを見ると、肌の色も瞳の色もそのままであるのだろう。
真夜中、月の影に無言で佇む主君が、思いがけず厳しい表情でくるりと振り返ったので、コルフィンは思わずひざまずいてしまった。

「…シスプ、リーシャ、オルハル、シュフエ、ミクチャ、パレンの村に行く。それとアリーセルの岩城だ」

低く唸るような声音。
怨念がこもる。

コルフィンは唾を飲み込んだ。

明敏でありながら、いつも優しく、敬愛すべき彼の美麗なる主が、本気で怒っているのが分かった。

「…それらは、我が君が無償で結界を施した村落でありますね。しかし、アリーセルは風刃君の…」


「殺す」


「え?」


「風刃を殺す」


「…なんと、かの王君の御命をお奪いになると?」


広大な砂漠の魔境を治める主人は、忠臣の言葉が終わるより早く、感情の激するまま、己の声が夜を切り裂き、眠りの精を遠ざけるのも構わず、破壊的な怨嗟の怒声をあげた。


「何度でも死ねばいい! 
地獄の業火に身も心も爛れさせ喚きながら! 
人知れぬ深海で絶望感にもがき溺れながら! 
自分が命を奪った亡者たちに命乞いし、けたたましく嘲笑われながら! 
穢らわしい鬼面を一層醜く歪めながら! 
…大恥を晒し、塵芥のように誰にも惜しまれず惨めさの深淵に喘ぎながら!
何度でも、何度でも、何度でも!
己の大罪を狂わんほどに穿ちつけられながら、絶え間なく押し寄せる絶命の苦悶を飽きて吐き出すほど、味わうがいい!」



「夢漠さま…いったい、なにが?」


「……ナバルが、やられた」


「まさか。レムラは、なにも…」



琥珀の瞳に濃い陰を宿した魔境主は、息を整えてから、声を低めて言った。

「レムラは見ていないか、情報として重視しなかったのだろう。それに…行ったところでほんの一瞬での大量虐殺だ…どの道、間に合わん」

「…確かに。私はエリンフィルトさまの様子を探れとしか伝えていませんでしたし…」


「皆殺しだ、村人全員を!」


ジルヴィードはやり切れないとばかりに、唇を噛んで、両の拳を握り締め、左手ですぐ横の壁を強く打った。

悔しさに歯を食いしばる主の横顔を見つめて、コルフィンは言った。

「村長のクレストどのは、私も懇意にさせていただいておりました…大変無念です。私もお供いたします!」

「…ならば、お前はあの女の部下をやれ。殺すか否かはお前に任せる。俺が責任を持つ」

「我が君の仰せのとおりに」

コルフィンは俯く主君が、あまりの悲しみに心打ちひしがれていることを悟ると、静かに立ち上がり、近くに寄り添うようにそっと手を肩に置く。

「俺が、悪いんだ…油断していた」

「あなた様のせいではありません」

かすかに震えている。
それを支えて、助けるのが、自分の務めだ。

「それぞれの結界を強化なさってから、アリーセルへ向かわれるのですね?」

側近の問いかけに、主人は黙って頷く。
コルフィンもまたそれ以上は言わなかった。
ただ、彼の唯一無二の主の為に自分の力を惜しみなく尽くすことを胸の内で誓った。

主従は、夜明け前、黎明の中ぼんやりと蜃気楼がごとく目に映るカルーンの主城『黄砂光楼』を音も立てずに出立した。



「あいつ、どこ行きやがった…」

そう呟いたのは、ナバルの村で記憶を取り戻したダーシムの魔境主ベレトンと、その姪の娘であるマリュネーラと共にラクロンの町に引き返してきた黒炎の魔人エリンフィルトだ。

宿屋の一室で椅子に腰掛け、長い足を組み、苛々と歯軋りと貧乏ゆすりを繰り返す。
どうやら、ユスの町で彼に話しかけてきたあの豹のような琥珀色の瞳の魔人の気配を探っているようなのだが、なかなか探知できないようだった。
マリュネーラには、彼がどうやって探しているのか見当もつかなかった。ただ、母の伯父であるベレトンには想像がつくようで、苛つくエリンフィルトの闇色の瞳を見つめた。

「…カルーン砂漠の領内にはいらっしゃらないのですか?」

「ああ、いねーな。さすがに、自分の魔境内で気配を消すことはないだろう。俺が見た限り、カルーンにいる様子はなかった」

「左様ですか…」

「ったく、人が呼んでもないときに、のこのこ出てきやがるくせに、こっちが探してるときに限って、全く気配を消しての雲隠れかよ…っとに、むかつく糞野郎だぜ!」

近くの机の脚を靴底で蹴り、漆黒の炎の王君は舌打ちをする。

「ほかに、探す当てはないの?」

マリュネーラの問いかけに、エリンフィルトは口を真一文字に結んだまま、大きく鼻息を漏らす。

少しの間を置いて、言う。


「…無いことは、無い」


「それなら!」


少女は目を輝かせるも、彼は呟くように答える。

「だけど、確率は高くはないだろうな」

「どうして?」

「…そんくらい、あいつは姿を暗ますことに長けてるんだよ。ただヤツに縁がある場所に立ち寄っている可能性はあるから、そこを見て回れば、見つけられなくもないだろう」

さも面倒臭そうに、エリンフィルトはまた息を吐き出した。

「ああ! 糞っ! 何だってこの俺が、あんな糞野郎に振り回されなきゃなんねーんだよ!」

美しい顔にそぐわない罵り声をあげ、むしゃくしゃとした気持ちを表すように艶やかな黒髪を両手でグシャグシャと掻きむしる。

「…それで、エリンフィルトさま。まずはどちらを探られるのですか?」

ベレトンは、彼の剣幕に少し押されながら遠慮がちに訊ねる。

「そうだな」

ようやく我に返った王君は、わずかに考え込んでから閉じた目を開く。

「まずは、シスプの村だ…あそこは、魔弓造りの名人がいてな。夢漠も気に入ってたはずだ。あの野郎は昔から弓も剣も人並み以上の腕だからな。馬鹿みたいに強えんだよ…あぁー! 糞ったれが! 特に、剣はな!」

「じゃ、魔剣造りの名人の村じゃないの?」

「いや、魔剣は自分で造るけど、魔弓はそいつのがいいらしくてな…馬鹿野郎、俺にあいつのことを語らせんな! ああ、ムカムカする!」


「なんだ。よく知ってるね、仲良いんじゃん」


「どこが! 悪いっての! 最悪だよ!」


むきになって叫ぶエリンフィルトの様子に、マリュネーラはくすくす笑った。

「でも、お陰で場所が絞れて良かった。ありがとう、エリン」

膨れっ面で、そっぽを向いた彼だったが、一言付け加える。


「…単に同じだけ生きてきたってだけだ。因果な話。面白くもねぇ」


「じゃあ、やっぱりあの人も、エリン並みの魔人なんだね」


「これ、マリュネーラ。王君に失礼ですよ」


「構わねーよ、ベレトン。…実際、あいつの実力は妹の王君、砂惑よりも上だよ。ほかの3人の王君なんざ相手じゃねーはずだ。そう、俺とも大差はないだろう…いや、むろん、俺のほうが『上』だけどな!」


自分で言いながら、だんだん腹が立ってきたようで、エリンフィルトは顔を紅潮させて、最後には怒鳴った。
ベレトンが注いだまだ熱い薬草茶を湯気の立つまま、ごくりと飲み込む。若干顔をしかめたところを見ると、やはり熱かったのだろう。それを見ながら、マリュネーラは喉の奥で何とか笑いを堪えた。


「分かってるよ。エリンは最強なんでしょ? それより、まずはシスプって村だっけ?」


「…そうだな」


軽く喉を押さえて、黒炎の王君はうなずいた。

「ああ。まったくよ…隠れ鬼の鬼になった気分だぜ」

マリュネーラとベレトンはよく似た顔を見合わせて、かすかに苦笑するのだった。



峡谷には今日も強い風が吹き荒れていた。

『風刃貴岩城』はアリーセル峡谷の最も険しい岩壁を削って造られている。
彼女の玉座のある『謁見の玉間』と寝殿を頂上に、百は下らない臣下の大小の居室や台所などが階層を成す。
そして、その最下層は攫ってきた奴隷たちを飼うための掃き溜めのような大広間になっていた。


彼女は、寝殿の窓の外にある露台にいた。
気まぐれな突風が彼女の左目の傷痕を引っ掻くように擦っていく。


白銀の前髪を吹き上げ、紺碧の隻眼を天網恢々と見開き、傷つけられた片目の恨みを、今日もまた風の谷全体に響かせ、下々の恐怖を誘う。

「おのれ、砂漠の魔人よ! 弱者の玩具に備えさせたこの卑劣な魔力! この消えぬ痛みと恥の恨み、晴らさんでおくものか! わたくしの地獄の火血刀、貴様より蒙った痛恨の千倍にして返してくれよう!」

眼球を再生して、目蓋の傷も消そうと幾度も試みたのだが、何故か元に戻らない。
考え得るのは、砂漠の魔人が振り下ろした魔剣の性能として「再生不能」の効果が備わっていたということだ。
ゆえに、傷つけられた痛みもさることながら、傷つけられた不名誉もまたずっと残ることになるのだ。

「我が君。わたくしの調べによりますと、かの魔人は供を連れ、シスプの村落に入ったようでございます」

「…シスプ? 奴の縁者でもおるのか?」

「恐れながら、シスプにもミクチャ同様の強結界が張られております。即ち、かの魔人の技によるものかと思われます」


先日、ナバルに同行した部下のウィランネは、ある魔人の元に、主君の使いで行っており不在だった。
今、この『風刃君』サラウィーンの足下で畏まってひざまずいているのは、先ごろ新しく臣下に加わりたいと志願してきた、ソルダという青い髪の女だ。
なかなかの切れ者で、情報を掻き集めることに長けている。

「なるほどな。わたくしの手が及ばぬうちに先手を打って結界強化を施しにきたわけか。…ほかに奴が結界を張ったと思しき村はどこだ」

「…は。オルハル、シュフエ、パレンは恐らく」

「ほぉう、どおりで。どれも王君たるわたくしに強気で来ていた生意気な村々だ…。良い報せを聞いた。オルハルはここから遠くない。周囲を荒らし、待ち伏せてやろう…これは褒美だ」

そう言って、風の谷の魔境主が出したのは、このアリーセル峡谷でしか産出されない稀少な天然石『風雷石』の結晶だった。透き通った石柱にひびのように稲妻形の光る筋が幾重にも走る珍しい石だった。街に出て売れば、小型の荷馬車では積みきれないほどの金塊と交換できる。

「有り難き幸せ」

ソルダは顔を上げず、ただただひれ伏し、礼を述べた。

サラウィーンは部下の恭しい態度に満足して頷きつつも、再び砂漠の魔人への復讐の炎をその胸に燃え上がらせ、大声で叫ぶ。


「…あぁ! それにしても、あの憎々しき琥珀の魔眼! 忘れようにも忘れられぬ!」


それから、どこからか吹き飛ばされてきた鮮やかな朱色の楓の葉を鋭い風の刃で粉々に切り刻むと、自ら生み出した風に巻かれるようにして姿を消した。


《魔剣を手に、琥珀の眼を見せる砂漠の魔人》



主人たる王君がオルハルへと立ち去った後で、ゆっくりと立ち上がった新参の部下は、青い前髪をさらりとかき上げ、無表情のまま、その主君が置いていった『風雷石』の塊を見下ろす。


「…手土産くらいには、なるかしらね」


彼女は呟いた後、虹色に煌めく稲妻模様の水晶石に数秒だけ見惚れたが、どうしても本音を吐かずにはいられなかった。


「馬鹿な女! 頭の中、空っぽなのかしら。あるのは、くだらない自尊心と憎悪の感情だけ! あれで、王君? あの頭の悪さで、砂漠の魔人に勝つつもりでいるなんて、呆れるわね…任務でなければ、爆笑していたわ!」



言った後で、一応辺りを見回すが、べつに誰かに聞かれても構わなかった。



彼女には、自分の有りっ丈の忠愛とこの身を捧げている真の主人がいる。
始めは砂漠の魔人の身辺調査をしていたが、急遽、風刃君の岩城のほうへの潜入を命じられてここに来た。


彼がきっと彼女を守ってくれるはずだ。
あの方ならば、風の谷の風魔のまやかしや低俗なあの女の手下たちなど、一瞬で蹴散らしてくれるに違いない。

「…我が君、朱燎さま。ソレイヌは、必ずやあなた様のご期待にお応えいたします」

風刃君が切り刻んだ朱色の楓の葉の残骸が、露台の上にわずかに落ちていた。
ちょうどその真上に、一つの陽炎が浮かんだ。彼女はそれに向かって頭を下げた。
その陽炎の像をわずかに揺らし、強い風が吹き抜けていく。


「可愛い女よ。少し独り言が大きすぎるぞ」


彼は半笑いして、密偵としては優れている青い髪の女に言った。


「申し訳ございません」


「まあいい。風刃は猪突猛進のうえ浅慮なことで有名だが、思いつきで殺戮をする。賢いお前ならば間違えないとは思うが、一応気をつけろ。それと…こちらにも、来たぞ」


「ウィランネですね」


朱燎は頷いて、愉快なことを思い出したような笑顔を陽炎に投映した。


「あの女。風刃などより余程根深い恨みを抱いているな、あの男に」

「砂漠のかた…にですか? ウィランネが? なぜ?」

「何故だかは知らん。理由などどうでもいい。だが、なんらかの形で利用できる可能性はあるだろう」

「かしこまりました。わたくしも念のため覚えておきましょう、我が君」

「そうしてくれ」


朱い炎のラウナ火山の魔境主は、頼もしい部下に向かい、宝石のごとき微笑みを見せる。


そう、自分はこの人の艶美でどこか狂気を帯びたこの妖しい微笑みに酔う為だけに動いている…。


彼女は自分の顔が耳まで赤く染まっていることを自覚して、更に赤くなる。

それを青く長い髪で隠すようになお深く頭を下げ、無味な灰色の露台の床を見つめた。




【文末コラム10】暖冬か早春か。


ここまでお読みいただきまして、誠に有難うございます!


この2月は、雨が多かったですね。
「菜種梅雨」が前倒しで来ているなんて言っていますが。
雨に伴い、雪の日もあったりして、気温の上下も激しく、体調を整えるのも大変な月でした。

暖冬?
早すぎる春?

気候の変動の激しさに釣られてか、花粉もばーばー飛んでるって話です。

しんどいですね🤧


さて、今回は新章『風の峡谷』スタートの回となりました。

「復讐する者たち」の章になりそうですが、母子の再会への道筋も見えてくるかというところです。



次回は、第一部 三章 風の峡谷 2 です。


次回も、またご拝読いただけましたら幸いです。

よろしくお願いいたします!




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