ルーツですかツールですか

2017.7.1 ー 2023.9.23

 

肉体はツールではなく、ルートである。
この肉体に宿った瞬間に、道は決まった。

道を示す肉体を選んで乗り込むのであって、
霊が受肉するこということではない。 

逆なのだ。

その肉体が持つカルマである遺伝子情報と、
己の霊の持つカルマ。
それらが重なった瞬間に、道は自ずと定まる。

大地に舞い降りた小さな種が、やがて大きな樹木として育つように、そこには成長していく過程や最後の姿も含めて、ルートが内包されている。

ルートが決まった時点で、
既に今回の目的地への到着は約束されている。

現実での不確定要素に苛まれる日常と違って、
この旅でわたしたちが予定の地へ到着しないということはない。

樹がどの環境で育ち、どのような見た目へ生長しようとも、あるいは、何かしらの外的要因によって途中で生長が阻まれることになったとしても、その内側には遺伝子による完成図が既に存在している。

その完成図が環境という地上の場で再現される際に、時間という投影機、あるいは魔法の眼鏡が必要なだけであって、完成形という『結果』は、既に存在しているのだ。

もし、同じ種を宇宙空間の無重力状態で育てたら、地球上で育ったものと同じような見た目にはならないかもしれない。
それでも、種の中には完成された『結果』としての固有の姿が先にある。
なぜなら、そこに予め配置された遺伝子が、
常に結果であり続ける存在だからだ。

遺伝子とは、ある結果を発信し続けるコードである。そのコードを時間という魔法の眼鏡で覗きこむと、生物としてのカラダが生成され、朽ちてゆくまでが現れる。まるで、ホログラムのように。

そこに、そのコードを必要とする霊(魂の腕)が搭乗すると、肉体はルートになり、旅路をサポートし、時間を体験をするという特別な経験を与えてくれるのである。

わたしたちがわざわざ肉体に乗り込む目的は、結果へ向かうことであって、結果を求めるものではないのだ。

ルートとは、結果に向かう道筋の選択であって、目的地、あるいは通過点が定められてこそ発生する概念だ。
ルートとして肉体が選択されるのならば、先に目的地が存在することになる。
目的地を入力しなければ、道案内をしてくれるナビは役割を果たせない。

したがって、わたしたちが気にしなければいけない点があるとしたら、それはこの旅の目的地を探し求め、到達点、あるいは到着地を何処にするかということではなく、眼前に広がる目的地までの景色をどのように受け止め認識するのかという一点のみにある。

事前に選ばれたルートの特徴と概要をどう受け容れて、自分はこの人生を『どう認識したいのか』を選ぶこと。それが一歩を踏み出す際の歩きやすさ、今回の旅の目的に関心が持てるかどうかを左右する。

美しい景色も、薄暗い路地も、荒涼とした乾いた地も、あるいは、腐敗の沼地を延々と歩くことになったとしても、その光景をどう認識し、受け止めるのかで、持ち帰る感想も次の旅への展開も違ってくる。つまり、カルマが変わってくるのだ。

わたしたちは、目的としてそれぞれの得たい情報がある。その目的の為に時代を選び、場所を選び、そこに必要となる材料としてのカルマが発露するコード、つまり肉体を選び…その時点である程度の目的が達成されることは織り込み済みなのだ。
乗り込む前に目的に則した到着地を決め、乗り込んだ瞬間に目的地へのルートが決まり、そして、その結果を実感を伴う情報として得るために、時間という道具……道程を映写機でスクリーンに投影したり、あるいは『時間』を感じられる眼鏡を通して、この道程を『見る』。あるいは、その固有の特徴を持った肉体を通して、その体験を『得る』のだ。

ひまわりはバラになりたくてもひまわりとして咲くしかない。しかし、物体として咲いたひまわりが結果なのではなく、種のなかに『結果は先に在った』のだ。その結果を変えようとしてもひまわりはバラとしては咲けないし、実際のところ、ひまわりはバラになりたいなどとは考えないだろう。そもそもの目的が違うからだ。

わたしたちはよく、肉体は車で霊が運転手などという喩えを使ったりするが、この比喩は実は半分も仕組みを言い当ててはいない。

実際には、肉体は『既に』到着地点に辿り着いた車であって、もっと言えば『ルートを示した地図』でもある。立体に見えるというだけで三次元の物質に思えるが、実は役割的には二次元に近い。紙面上に記された設計図であるとか、楽譜であるとか、そして、地図であるとか。

運転手と喩えられた霊は、先ず行き先を決定した後に、最も目的に叶うルートを通って辿り着く車に乗り込む。
結局、その時点で殆どすべての行程は完了している。乗り込んだ時点で霊の方では目的が達せられたに等しいからだ。

誕生で始まり、死で終わるのではない。
言うなれば、生まれた瞬間に。
もっと言えば、その遺伝子コードを選んで乗り込んだ瞬間に、既に旅は完了しているのだ。

そもそもわたしたちは、生きること自体ではなく、そこにある体験を目的としている。

肉体の誕生から死までの時間を人生と呼ぶのであれば、人生に始まりと終わりはなく、時間という概念そのもので織りなされる幻想をそう呼んでいることになる。

人生とは、始点から終点へ向かう一方向の直線ではなく、壁に飾られた一幅の絵画を眺めるようなものなのだ。

人生を時間として経験するのは、それを体験として得るために瞬間を引き伸ばすからである。
すべてが同時性のなかに現れる世界では、なにかを体験するというデータは取りにくい。
意図は瞬時に結果として現れてしまい、そこに変化と進化の種を蒔くのは難しい。

すべてにおいて、事象として現れるものには既にそれとして現れた姿や現象が先に存在している。
しかしこちら側で、時間をかけたり苦心の末に姿を表した様々なもの、表現された様々な事象を、わたしたちは目の当たりにする。
その際の心の在りようが、体験として求められているのだ。

旅のように始まりと終わりがあるのだとしたら、わたしたちの肉体をもっての人生は、旅で出会ったひとつの風景、立ち止まって眺めた心揺さぶる景色の一つに過ぎない。

人生自体は既に、あるのだ。
歩くべき道も、当然、既に用意されている。

今から自分で創り上げるものではないのなら、真剣に注力する気にはなれない…それはささやかな思い違いだ。

そんなことはない。

なぜなら、今回の人生の構想を練り、目的の為の舞台装置を創り上げたのは、ほかでもない『自分自身』なのだから。
わたしたちの一挙手一投足を誰よりも見つめているのは、わたしたち自身なのだ。
自画自讃となるか時期を変えての再上演となるか、それはわたしたちには分からない。けれど目的を達成し、鑑賞する以上の歓びを、わたしたちは作品そのものとしての立場で体験できる。

投影し、演奏し、記された情報を体験に変える目的。そこにある意図は観察である。

感情体験を情報として認識し、そこで得た体験をコードに書き込んだら、また次のルートで更に追求してゆく。同時進行する数多の人生のどこかで新しい認識が生まれると、それは直ちにほかの人生に影響する。なぜなら、新しい観察の結果は、新たな段階の体験を必要とするからだ。そうやって、化学反応のように、人生は観察され、集められ、再び観察される。そうやって魂の腕である霊は経験を積み、魂の進化に貢献するのだ。

だから、肉体の在り方や置き所に結果を見いだそうとしてはいけない。既に結果は『在る』のだ。もし、肉体に結果を求めるとしたら、それは遺伝子コードに記されている。だからといって、どれだけ自分の遺伝子コードを見つめたところで人生の意義が分かるものでもないし、面白くもないだろう。そこに今回の人生の秘密は記されているかもしれないけれど。

そうではなく、肉体は、既に決められたルートで到達地点に着いた相棒であり、肉体が必要だったのはそこに、ルートが示されているからだ。 

霊が楽器としてわたしたちの肉体を表現法方として使い、そこで演奏なされるのではなく、わたしたちの肉体は楽譜の方なのだ。演奏はすでに為されたものとして先にある。

わたしたちが本当に人生を『体験』したいのであれば、楽譜や地図ばかり凝視するのではなく、演奏された音楽をどう聴くのか、そしてどのように感じるのか、走り抜ける窓から何を見るのか、そしてどう感じるのか。その時々の心の在りようを吟味すべきだ。

料理の写真が載っているレシピ本をああでもないこうでもないと批評するのではなく、出来上がった料理を実際に味わって、個性を楽しみ、食事とは何なのかを知ってゆく。

そういう実践の中での感想を大切にしていけば、時間という猶予がある魔法の世界の特権で、フィードバックをしながら瞬間の中で向上さえしてゆけるのだ。

楽譜そのものは同じでも、演奏の仕方はいくらでも変えられる。
同じ演奏を聴いても、様々な感想を持つことができる。
同じ道を歩んでも、心惹かれる景色は時によって様々だ。
同じ場所へ旅したとしても、去来する思いはその度に違うだろう。

絵は描かれ、
楽譜は演奏され、
旅の約束は果たされた。

わたしたちにあるのは、その体験に身を投じ、感じる自由とフィードバックの選択だ。

本来の目的とは別にして、どんな感想を持ちたいのか、その体験をどう生かすのか。
それこそは、わたしたちに委ねられている。

では、わたしたちとは一体なんなのか。
わたしたちは、意識が個として表現されたエネルギーの在りようだ。
光であり、波であり、粒であり、
同時性であり、そして永遠のなかを流れる
揺らめく影でもある。



 

 

 


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