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SNS歴15年

ツイ廃人生の幕開け

Twitterを中2で始めた。
当時はまだガラケーで、自分で作るホームページ全盛期。皆がグループでホムペを作る中、私は英語で呟くことがまだスタンダードだったTwitterに手を出した。
英語で呟いたことはないし、本格稼働するのは高校に入ってからだった。

アメブロもやったことがある。ピグで遊んでいた気もする。知らないおじさんからのコメントが来るのが気持ち悪くてやめたんだったか。

Twitterはもちろん鍵をかけて、内輪だけにしていた。個人のメールのやり取りをせずとも、同級生の様子を知ることができる。リアルなやり取りは咄嗟のレスポンスが必要で怖いこともある。その点ツイートなら内容を熟考できるうえに、消すことができる!あの時こんなこと言わなければと後悔することの多い私には、とても合う居場所だ。

なんと今でも、同級生たちはTwitter(Xになってしまった!)に生息していて、悩み事や面白かった出来事を発している。
実は皆、同じように悩んでいたのかもしれない。類友だから、残っているとも言えるか。

読んだよの意味でつけていたふぁぼ⭐︎はいいね♡になってしまったから、少し使いづらくはなったものの、相変わらず毎日だれかが呟いていて、生存確認をできている。直接LINEすることにビビってしまうときは、Twitterで少しアピールするほうが楽なのだ。

いい子ちゃん

高一になった途端、大学受験を意識せよムーブが学校側から起こった。
まだ文理も分かれていないのに。はてはて、といった気持ちだったが、皆はそうではない。
大多数の同級生が、休み時間も勉強をし始めた。
テストの順位が出るようになった。
幸い成績は良かったし、保護者面談でも何も指摘されないいい子ちゃんの私に、母は満足していただろう。

幼き頃は漠然と父の職業に憧れていたが、父が出て行ってから、父方の祖母から「その職業は人を変えるのだ」等と言われ続けたので、その道はないか、と考え始めた。
もちろん憧れは消えないが、裏切り者と同じにはなりたくない。
なんとなく、それより上に行くか〜と自分の力量を理解せず甘いことを考えていた。

当時そこまで努力せずにいい成績を取れていたので、少し天才かも、と過信していた気もする。

運動以外のことは、何もしなくても大体8割できる。
ただこれだけは負けない、というものは私にはない。満遍なく普通よりちょっとできる私には秀でたものはなかったから、これもまたコンプレックスだった。

苦手なもの

基本的に女性しかいない環境で生きていた。

受験のために個別指導に通う案があり体験に行った。もじゃっとした40代くらいの男性に数時間数学を教わった。
その時は耐えられたが、帰ってからワンワンと泣いたのを覚えている。
厳しかったわけでも、出来なかったわけでもない。ただ、ものすごくストレスがかかった。
きっと、いい先生だっただろうに。
どうしたのと母に聞かれても、ただしんどかったとしか答えようが無かった。

父が出て行って以来、おじさんに関わる機会なんてほぼ無かったから?幼児期の体験が?兄の暴力が?
何が原因かわからないが、相当に苦手だった。特におじさんが。

修学旅行の班行動で利用した、観光タクシーの運転手さんともまともに話せなかったので、友人たちにとても心配された。引かれていたのかもしれない。

同年代も好きでは無かった。小学生のとき好きかなと思っていた男の子のことも、ただ勉強ができる男子に憧れていたのかと気がついた。私も男の子だったら、兄のように県外の学校にも行けただろうに。羨ましい、眩しい存在。

性的な話が無理だった。男子からの好意も気持ちが悪かった。男子校の文化祭で品定めされるのが腹立たしかった。
でも、自分の容姿は大丈夫なんだとも思えた。この矛盾に思春期の愚かさが表れているなと思う。無かったけれど、もし手を繋ぐイベントが発生したとしても、拒否してしまったはずだ。

同じ学校の子からうっすら告白をされたことがある。同性のそれも、正直不気味で受け入れられなかった。自分に向く恋愛的な好意が実は全てダメだったのかもしれないし、ただ当時枠にはまっていた世間知らずの私には、理解するキャパがなかっただけかもしれない。

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