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3年は頑張れ、の世論が憎い

就職

なんとか就活を終えることができたので、あとは卒業するだけ。
特に単位が足りないということもなかったので、成績はあんまりだっただろうがストレートで卒業できた。

入社前に集まることもあり、どんな人がいるんだろう、同じ会社に入るということは、何かしら似た性質があるのかな?仲良くできるかな?と期待していた。

が、やはり私は集団でうまくやれないのだった。少ない同期の中で、誰が好き好きじゃない、等興味のない話ばかり皆する。
混ざる気もなかったし、浮いていただろう。
早々にカミングアウトすることにした。

当時私は3人目の同姓の恋人がいた。社会人1年目同士で、同じような悩みを抱えていたし、支え合っていた。
遠距離だったので、不安にさせたくもない。2人目よりも依存タイプではなかったので、束縛は全くなかったが、余計な心配をかけるのも嫌だったし、虫除け的な意味も込めていた。

同期は皆、引くこともなく受け入れてくれた。やはりこの世代は、多様性への受け入れ態勢が普通にある子も多いのだ。とても嬉しかった。と、いってもあまり仲良くはできないのだが。

唯一今でも仲良くしてくれているのは、1人だけ。世界が広いことをちゃんと知っていて、目の前にあるテリトリーだけで勝負していない。私と違って、ちゃんと皆と関係性を築ける社会性を持っているが、彼もまた同期達の中で異質な存在。尊敬しているし人間として面白い。私のようなものと仲良くしてくれて本当にありがたい。

研修期間から少し違和感はあったが、入社した会社は昭和の慣習のようなものが強く残っていた。
特に女性への扱いが、華を添えるもの、だったように思う。会食の際、何かの意図を感じる席の配置がすごく嫌だった。目線が気持ち悪くて飲み会も行かなかった。本当は行くのがサラリーマンとしてあるべき姿だろうことも分かってはいたが、あの時の私には無理だった。
今時の若い子は、と思われていたに違いない。


やっている事業は、素敵だと思うから。性別問わず、同等の扱いをする風土が、少しでもできていることを祈っている。

地元へ

少し経ってから、母方の祖母が亡くなった。
自死だった。

中高の時一瞬だけ、母方の祖母が家に来てくれていたことがある。父方の圧により母は自分の実家に帰ることを許されていなかったので、私と兄は母方への縁が薄い。
仕事に出た母に代わりご飯を作ってもらったりしていたが、すぐに仲良くなれる年齢でもなかったので、よそよそしさはずっとあっただろう。だが、その後母と祖母は仲違いをしてしまったそうで、しばらくは会うことがなかった。

そんな時だったので、母はとても自分を責めた。決して母のせいではないと私は思うが、当人間にしかわからないわだかまりがあったのだろう。精神的に元々不安定な人だから、より一層危険な状態だったと思う。

生きることに積極的ではないから、母も自分で死を選べてしまう人間だ。いつでもあり得る。

忍耐力を試されるだけの何年も成長出来なさそうな仕事も、家父長制度の拡大みたいな会社も嫌だったし、この機会に地元に帰って母のそばにいようと転職をした。


辞めるのが早かったと思う。その後私は転職をまたするが、一社目の期間が短すぎることが、書類通過の大きなハードルになる。
が、結果母は存命で、あのタイミングで決断をしたことは、間違っていないと思う。

このあと、私が病むターンに入るので、今回は短めだが終わりにする。

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