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元鬱病、ボランティアに行く

実は月に一度くらい、休日の午前中はとある清掃ボランティアに行っている。実に5年目になる。

ボランティアへ行く前は、平日の5日間ですっかり萎びた心で「さみぃし、だりぃな」と悪態をぼやきつつ歩を進めている。しかし、いざ終わると心が洗われる気がするから不思議だ。なぜボランティアを続けるのかと聞かれるが、これはやった人にしかわからない感覚だろう。敢えて無償の肉体労働をすることで、救われる何かがあるのだ。

老(若)男女の幅広いスタッフがいるので、普段使わない言葉遣いを聞けるのも勉強になる。
「お茶碗が出払っている」
「春めいている」
「損じたら捨て置いてください」などだ。

話題も雛祭りや、東京マラソンなどでLINEニュースとTwitterしか見ない私には触れようがなかった人々の暮らしを伺えるのも勉強になる。市井の穏やかに新聞などを読む人々はこんな話題に興味を持っているのかと純粋に新鮮な気持ちである。

ボランティアスタッフ同士は、誰も背景を聞かないことも心地良い。暗黙の了解で、なぜボランティアを始めたのか、何年やっているのか、どこに住んでいるのか、仕事は何なのか。そういった質問はしない。淡々と「今日のトイレ担当は誰々、リネンは誰々、お願いします」と告げると、黙々と作業に勤しむ。私はこの場では、『力持ちだが、ベッドメイキングは遅い人間』でしかないのだ。

大人数の布団を洗ったり、トイレ掃除を何ヵ所も行ったりするのは、物凄く体力を使う。汗だくでの作業だ。一人暮らしではわからない。

ボランティアを頑張ったご褒美とかこつけて、ボランティア後はひとりで激辛インドカレーを汗だくで食べるのもルーティーンだ。

明日も自分に優しくできますように。

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