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新選組の 弓の名人

剣客集団として名を馳せる新選組。
しかし……弓の名手が属していたことを、あまり知られていない。

この人物。
安藤早太郎。
電子書籍で配信されている作品「新選組婉曲録」にて登場させている。

オムニバス小説集の最後の一篇「死神の弦音」
本文を参考に載せたいところだが、なにせ売り物なので、勝手には出来ない。気になる方がひとりでも多く、読んで頂けたら有難い。ただし、紙媒体はございません。昨年、日野で営業したら、ほぼ全員が
「紙の本はないの?買うよ」
と仰って下さいました……ごめんなさい、ありません。

Amazonからでも購入可能です!

さて。
宣伝ばかりでは面白みもないので、
ちゃんと安藤早太郎のことを紹介しよう。

安藤氏は、挙母藩御典医の安藤宣全の長男として1842年に生を受けました。父親が江戸屋敷詰だったため、早太郎氏も元服までは江戸に住んでいました。江戸在住時には、戸田市郎兵衛に竹林派の手ほどきを受け、竹林派射術総目録を受けるまでに上達したようです。その後は挙母藩に帰り、高木応心斎(高木尚三郎正朝)に応身流の指導を受けました。天保13年(1842)4月21日には、挙母藩藩主(内藤政優)の命により東大寺大仏殿西回廊において通し矢を行い、総矢数11,500中8,685本を射通すことに成功しました。これは当時の天下一の記録として、「東大寺通し矢絵巻」にもその様子が残されています。この「東大寺通し矢絵巻」は、名古屋の松波佐平弓具点に保管されています。
尼崎弓道会 公式ホームページ引用

ここで大事なのは、前人未到の
東大寺大仏殿西回廊通し矢、総矢数11,500中8,685本
という快挙!
これは当時の日本記録。にもかかわらず、大きく取り沙汰されていない。

京都三十三間堂での大矢数天下一の記録がオフィシャル
とされたためと考えられる。

三河国挙母藩出身。嘉永4年(1851)に脱藩し京都知恩院一心寺に入寺。その後、壬生浪士隊に入隊したとされる。のちに副長助勤になる。北辰一刀流の使い手で南海太郎朝臣朝尊二尺五寸の刀を所持していたことは分かっている。
東大寺大仏殿西回廊において通し矢の栄光から、10年後の脱藩。
なにがあった?

そんな彼の、傍目涼しげな様と内に秘めた激情を、作品では綴っております。

新選組が世に躍り出た「池田屋事件」。
安藤早太郎は近藤勇の部隊として、裏庭に配されていた。この事件の末に負傷した早太郎は、この疵がもとで命を落とす。新選組の栄光の礎となった人物だった。