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戦国時代の最前線

武田信玄が信濃や駿河など、遠くへ版図を拡げて、強大な最強軍団を整えていきました。そして、最も円熟したときの合戦が、三方ヶ原。松潤じゃなくても、適う相手ではありません。
信玄の敵は、天命だけでした。
その死を秘した武田勢は、馬場勢が岐阜城下まで現れて織田信長が籠城に徹したという記録(真偽は定かでない)もございます。その最恐な戦国の魔王の物語はさておき。

甲斐国は三つに分かれていて、信虎時代に「同盟関係」で一統されました。
南部河内と、郡内。
郡内は小山田氏が治めながら、絶妙な支配配分でした。桂川以北は武田に属していたとされるのです。上野原の加藤、小菅、そして西原地区。ここで勢力を保ったのは西原武田氏。小山田の直接家臣ではありません。

山梨側からの三頭山登山口、ここが西原


定説ではこの傾斜地が西原武田氏の居城(館)のあった場所

屋敷の背後から笹尾根(三頭山から陣馬山・高尾山へ連なる)へと登る路は古甲州道とされるもの。戦国時代の幹線道路です。

槇寄山ピークすぐ下の僅かな平地が、笹尾根と古甲州道の交差点・西原峠

ここが戦国最前線。
檜原城の平山氏(北条方)との睨み合いの場です。このピークを陣取っていたのは西原武田氏、砦や監視小屋のようなものを設置して構えていたと云われます。

現在の西原峠。近くには熊が爪を研いだ後が木に刻まれて、もう覚悟を決めたのを覚えている!

武田信玄の死後、後継者となった勝頼の代に、色々と翳りや綻びが生じます。長篠敗退後は、何かと読み違いに的外れ。勝頼を再評価する声もありますが、内政手腕がない戦国大名は強くても駄目。夢酔は評価できません。
「義経は強いけど、ルール破るし自己中だし」
というのと同じ。上杉謙信も同類だと思うのですが、家臣に恵まれたんだろうね。勝頼は、もう時間の問題。

そんな矢先。

此度才原、敵打捕候、神妙ニ被恩召候、仍俵子被下候、
向後弥軽身命於走廻者、御恩賞仁望可被与旨、被仰出者、也、仍如件、
          (北条氏照ヵ朱印状写(土屋和夫氏所蔵文書))

天正8年5月15日に北条勢と武田勢が西原峠で合戦に及び、北条氏照配下・土屋五郎左衛門が戦功をたてたので感状を与えたという文書です。
最前線に北条勢が攻め込み、国境で合戦に及んだ。
信玄の生きていた時代、甲斐へ他国の軍勢が攻め込んだことは一度もございません。これが、どんなに衝撃的な出来事か。
鉄壁の亀裂!

武田家滅亡は2年とないんですよね。

この地域まで足を運んで調べ上げて、クマに怯えて、そこまで書いた作品が、NOVLEDAYSの「光と闇の跫(あしおと)」です!

ぜひ、ご覧下さい。