見出し画像

コマ郡とは

律令の時代から、日本と半島は海外のつきあいがあった。
聖徳太子の時代に「日出ずる天子」と宣言し、古代中国の隋と対等の国交関係を表明し冊封から無縁となった日本。その冊封に縛られた朝鮮半島。当時は複数の国があり、現在の鮮人と異なる民族がひしめいていた。当然、騒乱もあり、戦争を避けて日本に逃れた技術者やその家族を、大和朝廷は受け容れる地域を設けたと考えられる。
それはどこ?
ひとつの目安となるのが地名。埼玉県日高市と飯能市を中心に設置されたのが、高麗郡。ここに移住者が集落を構築したとされる。

『日本書紀』に書かれた記録によると、天智五年(666)に「百済人男女2千余人東国移住」とあり、天武一三年(684)には「百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移す」。そして持統元年(687)に「高麗人56人を常陸國、新羅人14人を下野國へ移住」「高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住」とある。
そして霊亀二年(716)。
駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野に居住していた高麗人1,799人を武蔵国高麗郡に移し、建郡された。
彼らを統率し高麗郡全体を治めたとされるのが、高麗王若光という人物だ。

若光の出身国は高句麗。
当時の朝鮮半島は、高句麗のほか新羅・百済・任那(伽耶)の四国が睨み合う時代。高句麗は平壌を首都とした大国だった。高句麗は666年に後継者争いで内乱が生じ、それに乗じた唐と新羅の連合軍によって攻め込まれ668年頃に滅亡した。当時の半島は必ずしも安定したものではなかったことから、多くの亡命貴族や技術者たちが日本に亡命した。
若光一行は来日後に東海を目指し、大磯村高麗の地に腰を落ち着かせた。そこで若光は朝廷より従五位下に叙せられ、次いで王の姓を賜った。14年後、若光一族は武蔵の高麗郡に赴いたのである。

このように、高麗人をわかりやすく云えば、「渡来人」と評する方が理解しやすいかも知れない。
渡来人は、鉄製の武器や農具、工具を伝えたり、「須恵器」とよばれる土器、金属細工など、新しい技術を伝えています。ほかにも養蚕、機織り、漢字、仏教、医学などの新しい文化や技術を持って、古代日本における文化・政権形成に大きな役割を担ったと考えられます。
馬の牧についてもそう。
山梨県の巨摩郡は、高麗郡と同意。ここは良質な駒(馬)の産地であり、牧があった。甲斐駒は大和朝廷のブランド品である。ここにも渡来した人の技術が反映されていた。平安時代に甲斐国に入った甲斐源氏武田氏が真っ先に着目したのも、馬であり鉄器産業だった。この甲斐源氏の祖は、新羅三郎源義光(八幡太郎義家弟)とされる。この新羅は、近江国新羅明神(園城寺守護神)からきたもので、巨摩郡を統べる者の先祖にしては極めて出来すぎな由縁といえる。

後進の国である日本に来たという前提の渡来人ですが、太古のことゆえ、キチンと立証していくことも今後は求められるでしょう。亡命先に大挙して後進地にきて、しかも国を興すでもない。後進地なら、取って代わることも可能だった筈です。
日本は、卑下されるほど後進地ではなかったのかも知れません。ただし共存の懐はあったのだと思います。そして、異種文化の整合に長けていたのが、日本人の特性だったのでしょう。

高麗神社。
高麗王若光を祀る神社で、出世開運のご利益があるとされ「出世明神」として篤く信仰されています。そのため、参拝に訪れた政治家が、その後に総理大臣になっているという事実はあります。が、なった人が総理として、どれだけの実績を残したかは、名前を観れば皆様がよくご存じかと。

若槻礼次郎(25代):松島遊廓疑獄・昭和金融恐慌の引き金・満洲事変
浜口雄幸(27代)
:金解禁を断行し世界恐慌の煽りを被る・狙撃、のち死亡
斎藤実(30代)
:帝人事件で総辞職・二二六事件で暗殺
平沼騏一郎(35代)
:国民徴用令の制定・日米通商航海条約を破棄される
小磯国昭(41代)
:大東亜戦争中に付き統制出来ず8ヶ月で総辞職
鳩山一郎(52代)
:原子力基本法成立・日ソ共同宣言成立、領土問題先送り

総理大臣に出世はしたものの、何を成すかが問われる。しかも混迷困難な時代の、ババ抜きでジョーカーを回されたような時代タイミングともいえよう。批判はしない、ただ傍観の結果を評しただけである。
ちなみに6人以後、参拝した政治家から総理は出ていない様子。