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仏勉人好のフランス留学準備。フランス語の「明晰さ」に執拗に惹かれる僕、編。

ボンジュール。
ジェーム ル カフェ。


「明晰」に惹かれる僕

僕はよくこんな風に言われる。
・「抽象的な話が得意だね」
・「理想主義者だね」
・「イメージが先行しちゃうタイプだね」
・「感情的だね」
・「もっと自分に自信をもって」
自分のことが、客観的に分かるからありがたい反面、
自分が偏った人間なんだと自覚する瞬間でもある。

そのせいだろうか
・解像度を上げる
・論理的に話す
・一貫性をもつ
・合理主義者
こういう言葉にやたらと反応する。惹かれるのだ。

「明晰でないものはフランス語ではない」

この言葉をご存じだろうか。
真偽は置いといて、これによって、フランス語は論理的で、合理的で明確だといった印象が一人歩きしている。少なくとも僕の中では。

関連して、
フランス人は議論好きで、会話は洗練されており、意見と権利をはっきり主張するというイメージが補強された感がある。

うまく言い表せないのだが、こう、すっきりとしていて、鋭く頑丈で、堂々とした感じが、フランス全般にはあるのだ。

こういう捉えどころのない印象に対して、盲目的な憧れを抱き続けた結果が、今の僕かも知れない。

フランス語を学んで7年。
語学留学で物足りず、フランスの大学院に進学しようとしている僕のことだ。

実体のない何かに、人生かけて憧れ続けるなんて、
つくづく僕は不安定な道を進んだものだなんて振り返る。

なぜ明晰であることに惹かれるのか

僕が先に挙げたフランスっぽい要素を「明晰さ」とひとくくりにして置こう。(「明晰でないものはフランス語ではない」にちなんで)

僕はなぜ、この明晰さに惹かれるのだろうか。

この答えははっきりしている。
僕にはそれが足りないと感じているからだ。
つまるところ、今自分にないものを求めているのだ。

では、どうして持たないものを得ようとするのだろうか。
・僕は欲深いのだろうか
・今の生き方に満足していなくて、これで人生が一変するとでも思っているのだろうか

それとも、
バランスのいい人間になりたいのだろうか
たぶんこれだ。

感情的で抽象的な捉え方をする本来の僕に、論理的で解像度の高い理解ができる理想の僕を掛け合わせることで、偏りのない人間になりたいのだ。

偏りとは

偏りとは、具体的になにを意味するのだろう。

例えば、二項対立で語られる概念のどちらか一方に傾くこととでも言えるだろう。二項対立と言えば、以下のようなものだ。

・政治で言えば、左翼と右翼
・勝負で言えば、勝ちと負け
・道徳観念で言えば、善と悪
・学問で言えば、文系と理系
・戦争で言えば、敵と味方

どうだろう。わかりやすい。
2つに1つだという前提を持つと、
考えるべきことがぐっと減って、わかりやすいよ。

でも、こういう二項対立的な考え方が通用しないことって多いんだろうな。
こと、人間においては。

・夏目漱石は『こころ』の中で言った。

それから、君は今、君の親戚なぞのうちに、これといって、悪い人間はいないようだと言いましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型にいれたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんなふつうの人間なんです。それが、いざというまぎわに、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです。

夏目漱石『こころ』KADOKAWA、令和3年

悪人だから悪いことをすると考えているのは間違いであると。
善人でも悪いことをする。
善人だから、よいことだけをするわけではないと訴えてる。

・古典ラジオではこんな人間が紹介されていた。

オスカー・シンドラー

ナチス時代のドイツで、多くのユダヤ人を救った男。
放蕩で、稼ぐことに目がない男。
一方で、自分の命をかけてまで、他人の救った男。
矛盾した印象を抱くのは、僕だけではないだろう。

・犯罪者について考えてみよう。
昨今、犯罪の加害者の動機や過去について、掘り下げられることが増えた。

『ケーキの切れない非行少年たち』や、
朝日新聞の「子供への性暴力 加害を考える」などでは、
加害者側について言及されている。

そして、気づくことは、
加害者が、過去に被害者であった場合が多いということだ。

もちろん、それを理由に他者を傷つけてもいいなんてことが、まかり通るはずはない。許されてはいけない。

けれども、もともと悪い人間だから、犯罪を犯したと言い切るのは単純化しすぎていると言える。

これらの例から感じられるのは、
白か黒か、という考え方では、人を捉え間違えるということだ。
人間はもっとグレーなんだろう。

なぜ偏りを避けようとするのだろうか

改めて、なぜ僕は偏りを避けようとするのだろうか。

・型にはまらない時、苦しいからか
・分類できない時、もやもやするからか
もしくは
・グレーな存在に対して、一種の奥深さを感じるからか

よく分からない。
でも、このテーマに執着しているのは確かだ。

よくよく考えたら、矛盾している気がしないでもない。

バランスのいい人間になりたいと思う僕は、白と黒の間をとろうと考える。

自分は感情型だから、理性を主張するフランスについて学ぼう、
そして中和された僕が育まれないかな、と期待するように。

しかし、そもそもバランスのいい人間は、白と黒が存在してるって思わないのかもしれない。

グレーを前提にしているのかもしれない。

この意味において、僕はすでに偏っているんだろうな。

なんだかちょっと怖くなった。

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