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空に手を伸ばす理由

先週末、山に登った。
登ったと言っても車とケーブルカーを使ったから自分で登った距離なんて大したことはないんだけど、頂上からの景色は素晴らしかった✨⛰️
景色を眺めて何を思うかは人それぞれ違う。
空に手を伸ばす理由も、空に何を思い描くのかも違う。


空と頂上と私のバランス


空を山の上から見るか下から見るかどちらが好きかと聞かれれば、私は「下から」と答える。
私は上か下か自分はどちらにいるのか感覚的な混乱がよくあるから。

山が下で空が上なのか、空に立っていて私の頭の上に山があるのか‥山から空を眺めているのに、空から山へ墜落しているように思えて混乱する。
混乱が続けば、私はバランスを取りもどそうと山から飛び降りようとする衝動に駆られる。
この感覚のバランスの悪さを克服したく、山や崖に出向いて高所に挑戦するけれど‥中々難しい。

飛行機やジェットコースターは大丈夫🙆
不思議だけど横方向の動きは問題ないみたいだけど、垂直落下(エレベーターや急流滑り的なもの)は混乱してしまい苦手。
だから「高所」という訳ではなく、抽象(私の精神)との距離が離れすぎて自分の身体(五感)の姿勢を保てないんだろう。
平衡感覚を奪われそこに立っていられない。
トラウマや恐怖でびくつくのとはまた違う‥
私の感覚が脆弱なところ。


これを話してもあまり理解はされないけれど、ユングの自伝の中で「石の上に座っている自分は、石である私の上に彼ユングが座ってるという感覚が生まれる」と書かれており、認識は感覚的に近いのかも?と思った。
しかし、ユングは「石」になるが、私が「空」になる事はなく、私の場合は私を中心にした景色が下っているのか上っているのか混乱するから、ユングのように「世界から隠れる、自分の置き換え」という意味でもない。


下は映画『ドクター・ストレンジ』だけど、私の普段バランスを取る頭の中の世界(認識の仕方)は、上下左右もなくて高い所から眺める私が中心にいて、想像力でシステムを構築してる‥
こんなイメージで世界を眺めてる。


勝手に連結し分解して再構築‥これをもうずっと頭の中は自動でやってて私は高い所からそれを眺めてる。

私はこのシステムを使って見通しを立てるし推理や問題解決を楽しむからなくてはならないものだし、これが動かないと私はたちまち混乱する。
スパコンみたいなもので私の命綱だ。

私は頭の中のそれを眺めるのに不安定な場所に常に立ってる感覚があり、嫌でも集中し精神統一せざるを得ない。小さい頃から修行が必要だと誰に教わる事なく思ってたし、目を瞑って何かを感じ取ろうとしたり片足でバランスを取り続けたり。

子どもの頃は自分なりに何か見えないものを懸命に掴もうとしていた。夢や希望そういうのではなく世界はどうやって動いてるのか、何かのパターン。
今でこそ頭の中のスパコンは使えるけど、最初は何もなかったはずだから。

頭の中では、ビル建築の現場監督みたいな立ち位置で私は観測し、ただ直観を待ってる。
アンテナ📡感度は私の精神に比例し、より繊細にバランスを保つほど視野が広がり遠くまで見通せるし、洞察精度は増すんだ。
抽象でバランスを取り続け感覚を研ぎ澄まそうとする。

こういった事から、身体の感覚処理が追いつかないのは、物理的に高所に行くと途端にこの観測バランスが扱えなくなり混乱するからじゃないかと思ってる。
観測場所から墜落し、構築できず底が抜け落ちる感覚に近くて身体姿勢を保てない。

私は空に向かって手を伸ばすどころか、圧倒されて大自然にひれ伏している。


山に登って景色を眺め、開放感や心がスッキリするというような感覚はあまりなく、私の場合はバランス認識の確認と修行に赴いた、そんな感じに近い。

山に登らなくても私は心の内側から世界を眺めるし、見晴らしの良い景色と開放感は精神においていつもある。



空に手を伸ばす理由



『空の写真を集めていたり、空を見上げて物思いに耽っていれば「何か悩み事があるの?」とか病んでると心配されるのは何故か』とINFP友から相談を受けた。


私も空の写真や写真集を眺めるのは好きだけど、心の中にはいつでもどんな空模様も広がっているしイメージを引き出せるからあえて素材を集めはしない。

今までの私の記憶から心に描いた空を辿ると、小学生の頃、禍々しい赤い空を廊下から眺めてワクワクしたのを思い出す。
まわりは気持ちが悪い空だと話していたが、私は興味をそそられたし、それをじっと見て何か分かるか掴みたいとも思った。

空の強大なエネルギー、自然に畏敬の念を感じた。この神秘的な自然の繋がりに私は逆らえない、忠誠心に近い仲間意識のようなものは自然に対してずっと心にある。
私が山の頂上に登って空に近づき景色を見渡しても「私がこんな所に立ってもいいものか」とさえ思う。空にも自然にも強いエネルギーが私を繋ぎ   「大丈夫だ」と背中を押される感覚と同時に、それに対して責任も感じる。
責任というのは「自然を守る」とか「緑を守る」とか、そういう具体的なものではなくてもっと抽象的な生命や宇宙全体の繋がりへの責任。



昔の人も空を見て色んな事を想像したんだろう。弧を描く雲を見て竜を想像したのかもしれない。


雲の隙間から太陽の光がさすと神聖な気もするし、飛行機に乗れば雲の連なりに懐かしい景色に出会えた気持ちになる。

空には天のイメージもあり、不確かで自然だ。
科学は進んでも、私たちは神様や迷信を信じ、証明できない神秘を恐れている。
いや、皆恐れているのは現実だろう。
命があれば皆死ぬだけだ。
死を恐れない人を私は見たことがないし、死を知っている人にも会ったことがない。
死を恐れるあまり、生を、今を蔑ろにしてはいないか。
禍々しい空を見て小学生の私は死を覚悟をしよう、なんて勝手に思っていた。

空は私の中では、空想や夢のイメージというより、もう少し現実味を帯びていて何かの合図、メッセージのような位置付けかもしれない。
このメッセージは私にとって別に悪いイメージではなくて、お告げや予言といった啓示。


何かの作品で、余命幾ばくもない病床の少女に、病院の天井を眺めてばかりでつまらないだろうと、空の写真を毎日撮って渡していたエピソードがあった。
ベッドで寝たきりの彼女にとって「空」は天国を意味していた。
空の写真は現世への諦めに繋がり、痛みや苦しみから解放される美しい天国への憧れ、夢へと期待は高まっていく。
「彼女は自分から空に手を伸ばしてしまった」と作中で「死」を表現していたように思う。
生きていて欲しくて、希望を繋ぎたくて空をプレゼントしたが、結果的にそれが死を早めたのではないかと悔いていた。
主人公はそうする事で死の現実を受け止めていたのかもしれない。


もし空に天国を思うなら「現世の苦しみを忘れる」というようなイメージに繋がり「悩み事があるのか?」や「病んでいる」という発想になるのかもしれない。
願いを捨てずにいるのだから覚悟とは全く違う。
現実が辛くて、生きている事さえ困難な時「空に手を伸ばしたい」と思うんじゃないかな、とINFP友に話した。


その答えにしばらく呆気に取られていたのは、彼女の抱く空のイメージとは随分違ったからだろう。


彼女の空のイメージは、どんな空模様でも世界の空は繋がっているという可能性に満ちたものだった。写真を眺めては、撮影した時の心情、アングルから読み取れる雲の動きや色彩の美しさに感情が連動している。
写真に映りきらないものの具体的な想像(例えば風景写真から家の中には母と子どもがいて、花が飾ってあって‥など)や、どのアングルが良いかなど構成を考えるのは感覚タイプの人が得意かもしれない。現実に繋がる背景だから。

抽象はそれに加えて、写真を通して撮ったその人の視点を客観的に行き来したり撮影者の生き様や、景色を捉えた時の心情や意図にも思いを馳せ、前向きに解釈しようとする。
そしてどんな空の下にも人それぞれの生活があり、抽象的な空間、精神の繋がりを理解して幸せだと感じるんだ。
INFP友にとって空の写真は日々の感情風景と同じで、空のひとつひとつに表現される感情があり空の下に存在するであろう景色の広がり、家々も人物それぞれにドラマがある事を彼女は想像し解釈している。
なんて素敵なんだろう✨


紆余曲折でも「あー私、幸せだな」私達は内省しこの原点に必ず帰ってくる。
友達にとって空の写真はその大切なもので、空を見上げて想いに耽るのは、空の向こうにある遠くの誰かの心情に思いを馳せ、心を理解しようと手を伸ばしているんだろう。

彼女は天国に手を伸ばしている訳でもないし、空に救いを求めている訳でもなかった。

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