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感情の海での6ヶ月


ぐちゃぐちゃな感情の海で溺れてしまいそうになった時、気持ちを文章にすると心が落ち着く事が最近わかった。

特にそれは、人に見られる場所であればあるほど良い。

この半年間、私の心の内で何が起きていたかを書いていこうと思う。かしこまった書き方にはなるが、この方がどうやら私には合っているようでこのままで行かせてもらう。


私は遠回しに言われても「今相手はこう思っているんだな」と察する事ができる。だから、遠回しに言っても伝わらない・察する事の出来ない人の気持ちが理解出来ない。「遠回しに言われてもわからない」「伝わらない」とよく言われるけど、私のようなタイプからしてみると、直接言う人は相手の気持ちを汲み取れない、デリカシーの無い人間だと思ってしまう。

「今こう思われているな」と感じる事は、あくまでも私がそう捉えただけであって、直接言われている事では無いから間違っているかもしれない。でもわざわざ、「今こう思ってる?」と相手に確認してまで人間関係を続けようとは誰に対しても思わない。何故か?私は自分の事がこれっぽっちも大切じゃないから。他人に大切にされる価値が私には無いから。良好な関係を築いていくために労力を使う気になれない。そこにパワーを使うくらいなら、まずは自分の事を大切にする事にパワーを使いたい。

勘がいい人は気づいてるかもしれないが、今書いたことは矛盾している。
「自分のことが大切じゃない」「他人からどう思われてもいい」そう思ってる一方で、「直接気持ちを伝えることは相手を傷つけてしまう」とも思っている。これが私が死にたくなるひとつの大きな要因だ。
結局自分がどうなりたいのか、本当はどう思っているのかがわからない。自分の事なのに自分の事がわからなくて、正反対の考えにいつもいつも板挟みされてて、肉体が悲鳴を上げる。精神的苦痛に耐えられるだけの強い心が私には無い。だから私は私のことを精神的に未熟だと感じる。

カウンセリングでこの話をすると、「どちらの感情もあなたの中にある大切な感情。決して間違えではない。両方の感情を持った人間があなたという人間なんだから、否定しなくてもいい」と言われる。でも人と関わる上で正反対の感情があるというのはかなり厄介。
相手も「じゃあどうしたらいいの?」となる。そう聞かれてしまうと「私もわからない。私もそのふたつの感情の板挟みになってしんどいから」と答えるしかない。

昔は私もデリカシーの無い相手の気持ちを考えられない人間だった。というよりかは、相手の気持ちなんてどうでもよかった。自分の事が好きだったから。自分を好きになれる大きな強みがあったから。
でもそんなもの最初からなかった。才能なんてなかった。それに気がついてから、驕り高ぶっていたそれまでの自分への羞恥心と、その間に傷付けてきたたくさんの人達の事を思うと、自分の事を受け入れられなくなった。
早くこんな最低な人間は死ねばいい。生きている価値が無い。その頃からいつも胸の上ら辺に、死にたいという気持ちが付き纏うようになった。

自分を大切にするという話に戻る。
自分の事を大切にしたくて色んなことを試してきた。直近では東京にひとり旅行に行った。色んな体験をした分、その時の感情や出来事を誰かと共有したかった。でも、誰かに共有する前に頭の中にこう浮かんでしまう。相手は「旅行できるだけのお金があるとマウントを取られている気分になるのではないか」と。そう思うと「話さない方がいいかな」となる。結果的に話の触り部分だけ相手に伝えてみて、反応が香ばしくなければその話はそれ以降しないように心がける。東京旅行は例にあげたが、最近はどの話をするにしてもこの調子だ。

ひとつ、相手とコミュニケーションを取る時にこういうことを考えながら接しているとどうなるか。簡単な話で「相手にも自分と同様のレベルを求めてしまう」のだ。もうここまで拗らせると私が積極的に人と会わなくなった理由がわかるだろう。だからこの半年間、誰とも私は連絡を取らなかったし会いもしなかった。私の個人的な理由で誰かを振り回したくはない。

そしてもうひとつ悩みがある。「私はあなたが辛い時にここまでしてあげた。なのに何故頼ってくれないのか。何故話してくれないのか。」と私に対して思う人が出てくるということ。完全にお互いに対する温度感の違いだと思う。
「何故私に頼ってくれないのか」「私のあなたを心配する気持ちは私の自己満足なのか」「勝手な事をしている私の方が最低なやつだ」そう言われる。(この話については私の妄想でもなんでもなく、付随した実際の出来事があるが、相手のためにも詳細は書かない)
それを言われた私はどう思うか。「あなたの考えは何も間違ってはいない」「そう私に対して思って当然」ただただ、そう感じた。
怒りも何もなかった。ただ、少し恐怖を感じた。そこまで誰かに執着されるだけの価値が私には無いと思っていたから、全ての人間関係において、自然消滅することを望んでいた。自然に関係が切れても、「私という存在は誰にとっても薄いものだからしれっとフェードアウトしよう。誰の心にも残っていないだろうし特に問題は無いだろう」と思っていた。そのツケが回ってきた。
そこまで大切に思ってくれているなら、最初から私ももっと違う対応をすればよかったと思った。

が、またそこで厄介な考えが生まれる。
私の良心の呵責を利用して悲劇のヒロインぶろうとしているだけではないのだろうか?
もうここまで来ると最低以上に最悪な人間だ。嫌われて当然だし、私自身にも見限られて当然である。
でも相手に対して恨みはない。
それこそ悲劇のヒロインぶろうとしている訳では無いが、この出来事の当事者である自分でも、これは9:1位の割合で私が悪い事を自覚している。しっかり謝罪をした。このまま関係が続くのであれば、私は人との関わり方を変えていく努力をするべきだし、もし関係が切れたとしても、良い教訓にはなっただろう。時の流れに身をまかせる。

今ここに書いていることが、この半年間私の心の中で起きてきた事だ。皮肉にも、これ自体が遠回しな話になってしまっている。直接言うことも出来るが、私の直接的な指摘というものはとことん相手を傷付けてしまうことを私は知っている。
驕り高ぶっていたあの頃の私がそうだ。
そして今でも、遠回しにわざと人を傷つける発言をしてしまう事がある。あの頃の癖が嫌な形で引き継がれてしまった。直接的でも遠回しでもなく、穏便に相手に伝える方法を私は身につけなければならない。それが出来る人間になるために、私はカウンセリングを受けている。

私はいつになれば大人になれるのだろうか。

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