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太宰治の生家「斜陽館」を訪ねて(1)

 先月、8月下旬に作家太宰治の生家「斜陽館」に行って来た。
 岐阜市の自宅を朝9時前に出て、午後5時17分に青森県の五所川原の駅に着いた。乗り換えは5回で、ヤフーの路線情報によると、JR岐阜駅から五能線の五所川原駅までの走行距離は1158.7kmで、所要時間は7時間24分(乗車6時間13分)だ。いやぁ、お疲れ様でした (笑)。

 翌日は快晴で、五所川原から津軽鉄道で金木駅まで行く。乗車時間26分。津軽鉄道は一両編成で、冬場のストーブ列車は有名だが、この時期は風鈴列車を走らせている。車内では女性の車掌さん?が、太宰の小説『津軽』の一節を朗読してくれた。

津軽鉄道の車窓から見た岩木山

 金木駅で降り、荷物をコインロッカーに預け、斜陽館へ直行する。事前にグーグルマップとストリートビューを見ていたので道に迷うことはなかった。駅から10分足らずで斜陽館に着く。

斜陽館の正面外観(2階の開放されている窓の下に階段がある)

 玄関を入った受付で、斜陽館と津軽三味線会館の共通券を購入した。印象に残った処を写真に撮ったので、順次紹介していきます。

入口を入ると直ぐに土間。奥の上がり框で靴を脱ぎ、ビニール袋に入れて各自で持つ。
土間の奥から入口の方を見たもの。右手前が「板の間」でその左に「常居」が在る。
板 の 間
常 居

 太宰は、皆さんご存じの種々の不行跡のため、生家からは勘当状態にあったが、重篤の母親たねを見舞うため、昭和17年10月、生家の人たちとは初対面の妻子を連れて帰郷した。で、これがきっかけとなり勘当は自然に解消された。 
 昭和20年7月、戦火を避けるため、太宰は再び妻子を伴って、山梨の甲府から4昼夜かけて金木の生家に疎開し、文庫蔵の横の離れ(新座敷)に身を寄せた。母屋と離れは渡り廊下で繋がっていて、太宰の家族はこの常居で長兄の文治夫婦と食事を共にした。
 太宰と長兄文治との間には、なお若干の確執があったが、日常的に行き来するなかで、次第に確執も消えて行ったという。

 小 間(太宰が生まれた部屋)

 常居の北側に小間が在り、太宰はこの部屋で明治42年6月19日に生まれた。そして、38年後の6月13日夜半、東京の玉川上水に山崎富栄と共に入水し、奇しくも39歳の誕生日である6月19日早朝に遺体となって発見された。小説『人間失格』を書き上げた一か月後のことである。

斜 陽 館 の 庭 








 


 

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