祈る

祈りというお題でちょっとした文章を書かせていただいた。


それとは別に、祈るということにまつわるはなしを書いていた。


祈るというのは、個人の思う「そこにくるべき未来・期待」といったものを引き寄せようとする行為なんじゃないかと思う。引き寄せようとすることがらをしまっておくための箱をあつらえて、「ここに箱がありますよ」とアピールし、それが箱におさまるのをじっと待つ行為ではないか。

それは、自分の中で、事実や経験から見えることがらを整理・再構築して、新しいnarrativeを語ろうとする行為のようにも思える。

それを進めようとするとき、きっと心はしずかな状態にある。そういう環境に身を置くことから、祈りは始まる。であれば、一見すると精神的な営みにみえる祈りというのは、まず身体的行為から始まるものといえる。

さまざまなことがあまりに「言語化」されて「論理で語る」ことが常識となっている現状では、身体的なもの、言語化する手前の認知が相対的に価値を与えられづらい状況に見える。

しかしたとえば、ヴァーチャルな体験を通過することで、人間は自分の身体あるいは身体的な感覚を再発見できるのではないか。生きている限りそこから逃れられないものとして。そこからひととき抜け出る、まさに疑似体験をする環境としてヴァーチャルな世界は存在するはずだ(主客転倒する人もなかにはいるのだが。あるいはいくつかの切り口から全く違う論理展開や反論が可能なのは、今は傍へ置いておく)。

生きている自分の身体からえられる感覚は、脳で把握する認知・論理よりも下位におかれる、という漠然とした上下関係はあまりあてにならなくて、いわゆる「肌感覚」を人はもっと信頼してよいように思う。

自分の過去の経験や知見をもとに「ただしい」と判断できることなど大したことがなくて、それを知っているからこそ人は、自分の外側にあるであろう存在やそこに宿る力をあてにした「祈るという行為」を何の疑いもなくおこなうのだろう。