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阪神師匠ならきっとこう言うわ

袖から出てきて、客席へ向けてひとこと言うでしょ。

「会いたかったよ〜」

って。

 さて、昨日から始まったひと色展。言わば、大人が集まって本気でやる文化祭。楽しまれた方もいらっしゃって、準備スタッフとして関わらせていただいた身としては嬉しい限りです。

10/1(日)まで開催しております。

ひと色展@横浜

🍂2023.9.27(水)~10.1(日)
10時~17時

🍂横浜市大倉山記念館
2Fギャラリー
〒222-0037 横浜市港北区大倉山2-10-1

🍂入場無料・販売物なし

今やぞ!




 ひと色展オープンの前日にあった、個人的なできごとを書き留めておこうと思う。

 オンラインで以前にやりとりさせていただいた方とお会いできた。

 そのオンラインでのやりとりで「よみ人しらず」という歌の立ち位置をお伝えいただいたわたしは、そんな捉え方があるのか、と思っていままで見ていた景色が鮮やかに塗り替えられるように思った。

 わたしは表に出して言わないけれど、オンラインで交流のある方で「きっと会うことになりそうだ」と感じる方がいる。やりとりの回数や内容ではなく、直感でそう思うのである。そしてどうにもそれは当たるのである。自然と「そこへ行くことになってます」という流れで、どういうわけかお会いする。それはたとえば本屋でたまたま目の合った背表紙からメッセージを受け取るような、理屈とは違う世界にあるあの感覚に似ている。

 そういう記事を書こうとして、どういうタイトルがええやろかと思うて思いついたのは「うちら、ひやしあめ同盟」というものであった。ええけど、大丈夫かいな。


 お会いして、何と申し上げたのかちょっと覚えていない。おそらく「お会いしたかったんです」という意味のことを言ったような気がする。たぶん合っている、たぶん。さすがに阪神師匠のようには言えなかった。

 そのあと、作業の段取りがきっかけでわたしが話し始めたんじゃないかと思う。何を話したのか、たぶん、取るに足らないこと。「今日はいい天気で、ええ」とか「坂は大変ですよね」とか、そういうことだったのかもしれない。最初のとっかかり、人は初対面のときにどうやってアプローチするのか、この歳になってもよくわからない。
 しかし気づいたらわたしはしゃべっていたのである。半ば一方的に。うわっ、ええんかそんなんで。しかし記憶によるとそうなんである。わたしのしゃべった内容って、なんやろか。

 たしか、そう、同じ景色を見ているとしても、そこから何をどう解釈するのか、誰もが同じ景色をみてもそこからほかの人が気づいていないことを提示できるか、というようなことを少し話したような気がする。

 言葉で表現できることには限界があるけれども、それを知りながら人は表現する、というようなことも少し話したような気がする。

それから、言葉そのものの捉え方。機能としての言葉と、情緒としての言葉と。当たり前のこととはいえそれはわたしが突然発見したものではなく、昔から言われていることである。言い換えればこう言うことにもなる。

文学の本をいかに読むかは、知識の伝達を目的とする「教養書」をいかに読むかということよりずっとむずかしい。にもかかわらず、科学、政治、経済、歴史よりも文学の読み方を心得ている人の方が、ずっと多いように見える。

M.J.アドラー、C.V.ドーレン 「本を読む本」



 もういちど冷静に記憶をたどり直しても、どうやらわたしは一方的に何かをしゃべっていたようである。

 夕方まで外で思いきり遊んだ子どもが帰宅して、親に「あのね、今日ね、たくさんあそんで、公園に行って、ブランコして、てつぼうして……」と汗でぐしゃぐしゃのまま興奮してしゃべる、あの感じ。「いいから手を洗いなさい」と言われるあの感じ。

 不思議なのは、わたしがしゃべっている言葉が吸い込まれるように思ったことである。今までそういう感覚になったことが無い。真摯に耳を傾ける、というのに似ているけれども、もっと深くて、ここちよい響きを返していただくような感覚。わたしの知っている聞き方とは違う、知性をまとった静けさがそこにあったように思う。

 わたしがしゃべっているから聞いている、というのとはすこし違う。その聞き方はきっと、言葉をきいている。言葉のつらなりをそれとしてそのままきいている。そして声の抑揚をきいている。その声が出てくる背景には何があるかに耳を傾けている。言葉の生まれる向こう側を感じようとしている。
 わたしのしゃべった言葉、声、意味がそのまま届いたというよりは、その声の調子、しゃべる速さ、選ぶ言葉、イントネーション……さまざまな要素に瞬時に分解されて、それが細かな粒子やもっと小さな単位にほぐれて感受性のアンテナに届く、それでいながら同時に、言葉そのものをそのまま受け取ろうとする姿勢のように感じた。

 そこには「話をきいてもらっている」という単純で一方的なものではなく、話したことへの感想や頷きという次元を超えた明確なレスポンスがあるように思えて、普段とは違うコミュニケーションを体験した心持ちになった。

 短い時間のやりとりしかできなかったけれども、言葉に向き合う、ということがどういうことかを教えていただいた気がした、ゼロの紙さんに。



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