何も考えずに書き始める

 書いたあとまったく見直さない文章とはどういうものか、愚にもつかない実験である。

さしたる目的もなく書き始めているが、そういうときになんとなく身辺の何かしらをきっかけに書き始めるのか、頭の中にある現実とは少し違う世界のことを書き始めるのかは、その人の個性に関わっている気がする。

 何も考えずに思考を遊ばせるように何のこだわりもなく文字をぺたぺたとタイプしていくことで何が得られるかというと、べつになにもないのである。そう考えると、ただものごとを書きつける行為は「コスパの悪い行為」でもあるのだろう。何にもならないことを書いて何の意味があるんですか、という問いがあるとすれば、別に意味はないと答えればよい。そういう人は無知である。無知ではあるが、そのような建設的ではない質問をしたがる人間をつくる環境がよくないとも言える。だからといってわたしは環境を変えろ!と言いたいわけではない。環境は人間ひとりひとりが寄り集まって作るものなのだから、ひとりひとりが自分の持ち場でお天道様に恥じない生活をすればよいのである。それが環境につながると思う。そういうところには似た人が集まってくるのである。昔から類は友を呼ぶという言葉があって、それはきっと本当のことだろう。

 反射的に答えがでてくるのは、その人がものごとをよく考えていることでもある。頭が良いひとは本質を捉え、端的に表現できる。それを真似して短い言葉で何かを表現して誤解を招く事例、わざと曲がった方向へ導こうとする事例があるようにも思う。リテラシーという横文字は、なにか教養というものにも通じそうな気がする。ものごとを俯瞰して一定のバランス感覚の元に判断するような気がする。そういうものを予め傍線を引っ張ったりマーカーで「ここは大事ですよ」と無用な演出をした書籍にたよって手軽に手に入れようとするのはどういう了見なのか、と思う。大人がそういう小狡い態度で生きているうちは、おもしろい世の中にはならない気がする。

 男女平等とか、ジェンダーフリーとか、みんなちがってみんないいであるとか、そういう耳触りのいい単語が大手を振って世の中を歩く。わたしは「そうなのかな」と立ち止まる。男女平等であれば、男がやる仕事は男が適している、と判断するのが平等なのだと思うこともある。基礎的な体力に違いがあるのは、たとえばオリンピック競技が男女別になっていることからも明らかであるし、そもそも身体構造が違うのだから、同じ給料を出して同じ時間だけ働いてもらうにはどちらがよいですか、という単純な話である。それでも同じあるいはそれ以上に働ける人はすでにバリバリ働いているのであって、それ以上、何を平等にすればよいのかわたしはわからない。それはある意味すでに先進的であるように思う。
 人間の男は昔から女のことを自分より優れている生物だと本能で理解してきたから、ことあるごとに「男の方がエライ」と喧伝してルール作りをしてきただけの話だろうと思う。本当の強さを持っている人間は、その強さを鼻にかけない。ひとによって見えている景色が違うので、わたしのいうことに「それはちがうだろう」という人もいて、それは当然である。であればご自身が何かの折にご自身の場所でご自身の責でもってそう言えばよい。単純なことである。そして自由とはそういうものであろう。人を否定する自由があって、否定された者はそれに反論する自由、聞かない自由もある。しかしそれは放埒、ご都合主義とは異なる。まず自らを由とする態度がなければならぬ。それを踏まえて初めて「みんなちがってみんないい」とならねばならぬ。公共の福祉とはそういう類のものではないか。そうはいっても人は経験や感情の土台の上にたってものごとを見るので、それが正しい理解や見方なのかどうか、わからないのである。

 そうやっていつも思考はどんどん袋小路に入っていく。正しさとはどういうことか、なんて答えのないことをほじくりかえしそうになる。自由であるとか、正しいであるとか、そういうものは感情の面からいえば「自らのこころに引っ掛かりがない状態」であって、無碍、つまりはさわりのない状態であろう。やましいところがない、ひっかかるところがない、つまづくところがない、という状態である。「〜でない」という裏返しのような表現でしかこの心境は説明できないだろうと思う。気分がよい、とか、充実している、とかいう言葉とは違う状態である。自由とか正しいとかいうのは、言葉を尽くしても言葉で表せない世界のことのように思う。それを低い視座と拙い語彙でああでもないこうでもないと言うのも、そうやって理解の螺旋を登っていくプロセスを考えると無駄ではないだろう。誰のことでもなくわたしのことである。

 螺旋という言葉やデザインには、なにか魅力的なひびきがある。二重螺旋構造。われわれを知らず構成しているのは二重螺旋構造である。この構造を知ったときの人間の驚きはどれほどのものだったのか。岩波文庫「生命とは何か」によれば、シュレーディンガーが講義したのは1943年であり、これによって生物をミクロの目で見ようとし始めたのだろう。その延長線上にワトソン・クリックの二重螺旋構造の発見があった。この螺旋を解いて増やしてわれわれは日々生きている。こうやってぐるぐると愚にもつかないことを考えるのもある種の螺旋なのだろう。しかし、螺旋階段とはちがう。螺旋階段であればぐるぐると足元をみて回っているうちに思わぬひらけた景色へ出ることもある。わかりやすいことは大事なのだろうが、わたしはわかりやすいことを書きたいとはまったく思わない。理解には理解するに相応しい基礎知識が要るし、それがなければ新しい理解には到達しないからである。ひとめみて「わかる」というものは、直観的に本質を衝いたものもある一方で、表面をなでたに過ぎないことも多い。あるいは「自分の教養の程度でわかる」というレベルの場合もある。なにしてもわかりやすいことが絶対的に良い、なんてことはあり得ない。誰もが飛びつくようなわかりやすさは貧弱な表現しか産出しない。そういうものは底が浅いためにすぐに飽きられ、次の飛びつくべきわかりやすさを探すことになる。消費とはそういうものであって、わかりやすさに満足するため対価を払うのだろう。消費というより使い捨てといったほうが適切な気がする。

 どうでもよいことを推敲もせずだらだらと書きつけていて、これはものを書いているといえるのだろうか、と疑問をもつ。もの書きとは、文章を綴ることで生業とする人を指すのであって、ただこのようにだらだらと思考を垂れ流すことを指してはいないと理解している。そう考えると、わたしはもの書きという人種からは遠いところに居る。一方で、誰に期待も要請もされておらず、報酬も発生せず、生産的とも思えないのにも関わらず、必要もないのに日本語を継ぎ足して文章にしているのは、いったいどういうわけであろうか。こういうことをして誰かと討論したいのか、まったくそんな気はない。面倒なことは避けて通る質である。必要もないのに日本語を並べ立てるのは、自分で過去に言うたことからすると、現状に満足していない、という一点に原因があるように思われる。不満がある、というのか、現状では足りないと思っているのか、それは読んだ人の解釈に任せることにするのだが「この文章を読む人がいない」という前提は置かないのか、という冷静な自分がいる。