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まったくつまらぬ前置きと本題

言葉に関する困難はなかなかばかにできないものです。母国語というものは、体にぴったり合った着物のようなもので、もしそれが直ぐに使えないで、別のものを代りに着なければならない時には、誰でも決して気楽な気分になりきれるものではありません。

エルヴィン・シュレーディンガー 生命とは何か

日本語で一生を過ごせることのありがたさを思う。

たとえば、小学生の時分から英語に親しむのは、新たな視点を獲得するにはよいかもしれないけれども、日本語すら満足に使えないうちから、日本語ではない言葉を、言語として捉え、それに触れることの意味は、わたしにはよくわからない。だれか賢い人だと、万人がわかるような説明をしてくれるのかもしれない。

自らの言葉で、自らの考えをまとめ、知らない地平へ歩みだしていくことを想像すると、そこにはまずもっとも慣れ親しんだ言葉を持ってくる。わたしはそう思う。
ふたつの言語があるとして、そのどちらにも慣れ親しんでいない人間は、「母国語」という概念が自分から遠いことに不安を覚える。人は、自分が立ち返るところ、振り返っていつでもそこに帰れるところを持ちたがる。それは原風景という単語で表されるものであって、その原風景は自分が最も親しんだ言語、言葉で表現される。

最も親しんだ言葉が何かわからない人間をつくり出すことがいまの日本において「もっとも効率的な教育」なのかもしれない。

そういえば、教育に効率があるのかどうか、わたしにはわからない。コスパのいい教育、"投資"の費用対効果を喧伝する教育、そういうものがあるのかもしれないけれども、それがあるのだったら、わたしが昔の人に教わった「学問に王道なし」という表現とどういう関係があるのか、教えて欲しい。

上でメモしたことに限らず、昔から「教育」ということは日本という国において熱心に言われ続けてきたけれども、その教育(これは、受験という制度を過剰に礼賛する風習でもある)を受けてきた人がおとなになった国は、いまどうなっているのか、いちど答え合わせをしてみてもよいような気がする。

合格ハチマキをして自習室に缶詰になっても、大金をはたいて超絶スゴイ家庭教師を雇っても、オンライン授業を目を皿のようにして受講しても、河川敷で寝っ転がっていても、あまり変わらないように思う。

学ぶ人は学ぶし、学ばない人は学ばない。
そして
学ぶための言語をおろそかにしていては、深く学ぶことは決してできない。自然言語も、数式も、化学式も、他人と意思疎通するための道具という観点からは同じである。



まったくつまらぬ前置きは脇へ置いておいて
本題なのですけれどもね、
今日は暑かったですね。
八重桜も咲きましたよ。