メーディアと黒塚の鬼が手を取り合って国家を滅ぼすときに


 プラトンの『饗宴』はソクラテスを囲む宴会を描いた対話集であり、愛についての哲学を語った著作だ。『饗宴』といえば、両性具有者アンドロギュヌスは有名だけど、それと同じく語られる同性具有者のことはあまり知られていない。プラトンの『饗宴』では宴に招かれた喜劇作家アリストパネスがこの物語を語る。
 ソクラテスのファンであるアポロドロスは、この宴でアキレウスとパトロクロスの恋仲においてどちらが年長者の役であったかを問う。彼はアイスキュロスによる詩劇の解釈を批判し、自分のパトロクロスとアキレウスの関係性の解釈を語ってみせる。
 愛と同性愛、そして演劇がギリシャにおいて近かったことを思わせる箇所だけど、日本も事情は同じだったのかもしれない。
 日本の衆道文化や、芸能との関わりは、今さら論じるまでもないし、井原西鶴の『男色』シリーズは翻訳や漫画化がなされ大きな人気を博している。
(渋谷智幸、畑中千晶「全訳 男色大鑑〈武士編〉」文学通信、2018や、「男色大鑑-武士編-」KADOKAWA/エンターブレイン、2016など、BL文脈からの再評価が始まっている。)
 その意味において、日本の芸能とギリシャ演劇の相性は良いものがあるのかもしれない。男性の色気への偏愛は、日本の芸能の特色であり、音楽においてもジュリーのような男性で化粧をする歌手がいち早く現れたのも日本だった。近年再評価が進む小説家の赤江瀑は、そうした歌舞伎や能の男性同性愛の魅力を鋭く描き出した作家だ。彼はまたギリシャ演劇にも耽溺し日本を舞台にギリシャ風の悲劇を展開させもした。赤江瀑だけでなく三島由紀夫や中井英夫といった面々もギリシャと日本の古典を愛好したが、それは、ギリシャと日本の男性同性愛が持つある種の共通性への憧れだったのかもしれない。
 だが、そこにおいて無視されていたものがある。それは女性の存在だ。ギリシャの少年愛は女性への嫌悪をベースにした理論が組み立てられたし、日本もそれは変わらない。井原西鶴の『男色大鑑』はそこここで女性への嫌悪をむき出しにするし、上田秋成による『雨月物語』もそうした一面をもつ。
 ギリシャ演劇はまた直接的に「残酷な場面」を描くことを避け、それを発見や過去の報告という形で処理をした。アリストテレスも『詩学』の中で発見こそを劇的なものという地位に据える。なぜならそれは一貫した時間を模倣する中で、もっとも登場人物の心情に影響を与える瞬間だからだ。彼はまた、不快なものを直接見るのは苦痛だが、それを描いたものを見るのは快でもあるとしている。生身の人間による死体の模倣は、模倣を超えたあるいは模倣不能なものを模倣する危険な行為だったのだろうか?
 演劇は、ギリシャの社会機構を支えるものであり、その点において危険な表現は排除されなければならなかったのではないか。
 ギリシャにおける少年愛もそれは変わらない。それは年長者が年少者に対して行う行為だった(こうしたギリシャの同性愛と女性嫌悪の在り方に関してはフラスリエール、Rによる「愛の諸相―古代ギリシアの愛」訳戸張智雄、岩波書店、1984に詳しくまとめられている)。私はここを何度強調しても足らないと思うけど、ギリシャも日本も、男性同性愛というものは女性嫌悪に支えられていたし、それは年長者と年下という階級制の一端をなすものだった。
 だがもちろん、今や演劇は社会の機構ではなく娯楽となり、私たちは残酷な表現や残虐な表現を楽しく享受している。その上で私たちはどのような悲劇を模倣すれば良いのだろうか?私はその1つの手段として女性と言うものを考える。
 もちろんギリシャ演劇にも歌舞伎にも、魅力的な女性たちは多く登場する。多くに悲劇に見舞われながら、権力を持ち男性と戦おうとしたメディア、家と国家に逆らい自身の信じる法を貫いたアンティゴネ、弟と共に戦ったエレクトラ、といった面々はギリシャの国家や家に反逆した魔女たちであり、英雄だった。彼女たちは英雄だったが、それにゆえに魔女にされた。今でも彼女たちはフェミニズムの中で扱われる人物たちでもある。
 日本の源氏物語だって、女性を描くためのものであり、光源氏のひどい有様は、紫式部が女性の反応を描こうとした結果だったとも言える。日本の古典芸能はまた強い老女がたくさん登場する。私は出来るなら脱衣婆になってハラスメント罪人の衣をひっぺがしたいと思うし、黒塚の鬼も素敵だと思う。雪姫のように魔術で戦うのもいい。
 だが、彼女たちはほとんど、同性の友人に巡り会えなかった。アキレウスにとってのパトロクロスを、メディアは持てなかった。光源氏にとっての中将を、八百屋お七は持てなかった。この女性の分断と孤立こそ、最も危険な力を暗示する。女性と女性の連帯、これが無視されてきたという悲劇。
もちろん私たちにはサッフォーがいるし、「うちはらふ 友なきこおろの 寝覚めには つがひしをしぞ 夜半に恋しき」と詠んだ紫式部は女性同士のケアを求めていた。プラトンの『饗宴』にも「世に同性愛の女というのは、この部類から生まれたのだ」とあり女性同性愛者たちはいることにはいた。もっとも近代に至るまでその記録はほとんどない。
 だから私は夢見る。たとえば、歌舞伎の心中ものを両方女性にして、明治の女学校を舞台にしてみたらどうだろうか?もっとも最後は死ななければならないのでは、パトリシア・ハイスミスが『キャロル』を書いた時代から大した変化はないことになる。それを危険なものに演出する方法はたくさんあるだろうけども。
 ならばもういっそ、メディアと黒塚の鬼が共に手を取って世界を滅ぼすような物語はどうだろうか?王谷晶や李琴峰に書いてもらえれば最高だろうし、ルー・ヤンなんかに映像化してもらったらきっと素敵に違いない。
 エレクトラと六条御息所が友達になり、対等に互いに罵り合い戦う時──。それこそ、ホモエロティックな東西の芸能の中で、女たちとクィアが無視されてきたという千年にわたる壮大な悲劇が、ようやく語られだす瞬間なのだ。それは、私と言う政治主体を構成するのに必要な機構の1つであると私は思う。

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