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備忘録的サブカル近現代史考 005:芳町

先日、某常連さんと話していたとき、「ある社長さんの奥様が元々芳町の方で…」という言葉に出くわしまして、その場では簡単に教えていただきましたが、その後ウェブなどでも調べて初めて「芳町」という言葉を知るにいたりました。ウィキペディアでは「芳町(よしちょう)は、東京都中央区日本橋人形町の旧町名、花街。葭町とも表記する。」とあります。中央エフエムのパーソナリティを仰せつかり、番組をやらせていただいている身として、この辺の言葉を知らなかったのは痛恨の極みでしたね。

結局、以前にいくつかの本で読んで、葭町という表記などについても少しは知識があることを思い出すわけですが、「そういえば、甘酒横丁に三味線のばち屋さんがありましたっけ」というあたりまで思い出し、もう少し文献に当たらねばとなっております。

とにかく、ウィキペディアの解説が実に的を得ており、簡潔明瞭なので、抜粋して記してみましょうか。

芳町を含む現在の日本橋人形町周辺はかつて「元吉原」と呼ばれる遊里(遊廓)が設置され繁栄を極めていた。しかし、江戸市域の拡大や1657年の明暦の大火により遊郭は浅草に移転し(新吉原)、元吉原は私娼窟となった。中村座をはじめ歌舞伎の芝居小屋も立ち並ぶようになった。それに随時して陰間茶屋が生まれ、若衆と呼ばれる10代から20代初頭の少年が客を取るようになりはじめた。当時の役者は男娼を兼ねていた。それが、後の芳町花街の始まりであった。
天保12年(1841年)、中村座の焼失で芝居小屋群は浅草の猿若町に移転し、その後の天保の改革で江戸市中の岡場所(非公認の花街、遊廓)が取り潰され、深川から逃れてきた芸妓が移り住み、芳町は芸妓の花街となった。幕末には24人の芸妓がいたといい、柳橋と霊験島の両花街の間に挟まって押され気味だったが、明治初期に隣接の蛎殻町が米穀相場の町となって以来、俄然活気を帯びた[1]。明治、大正、昭和にかけて繁栄を極め、日本で最初の女優となった川上貞奴や芸妓から歌手に転向した勝太郎ら名妓を輩出した。

Wikipedia「芳町」参照

何と深川にも繋がりがあったんですね。これまでも深川の辰巳芸者に関しては結構調べて勉強したつもりでしたが、天保の改革時で芳町に逃れたはなしには至りませんでした。

そして、個人的にサブカル近現代史的にいろいろ調べていた部分と整合性がとれる表記も出てきました。同じウィキペディアのページの後半部分も引用しておきます。

大正期には、「白首」(しろくび)と呼ばれる私娼が登場し蛎殻町周辺で客を取り風紀を乱していた。昭和初期には柳橋と霊験島を合わせても及ばないほど繁栄し、置屋が240軒、芸妓700人を数え、待合は140軒弱、料理屋は5、6軒あり、その大半は蛎殻町界隈に集中していた。
第二次世界大戦による営業停止、東京大空襲の被害を乗り越え、花街は昭和24年(1949年)、芸妓278名、置屋177軒、料亭、待合あわせて121軒で復興された。
しかし、高度経済成長期後は衰退し、昭和52年(1977年)の町名改正で町名としての芳町が消滅、芸妓、料亭は減少し、2010年(平成22年)現在、料亭は『玄冶店 濱田家』ただ1軒となり、芸妓16名となった[2]。それでも、久松をはじめ少数の芸妓が花街の伝統を守り伝える努力をしている。

Wikipedia「芳町」参照

日本橋と大括りしていた知識が、この「芳町」の情報として出てきます。ただ残念なことに、自分が何故?と思い、いろいろ調べている根本部分の情報は流されています。つまり、何故高度経済成長期後は衰退してしまったのか、が触れられていないんです。

趣味で田中角栄の「列島改造論」などを検証していた時分、角栄さんのお座敷での小ネタはいろいろなところに出てきました。田中角栄が逮捕されたことで、一緒に萎んでしまったわけではありますまい。何故この時期からいきなり衰退したのか、その理由が説明できないままなんですよね。旦那衆、お座敷遊びに飽きて、いきなりロック・バーで遊び始めたわけではないでしょう。

確かにジャズ喫茶からロック・バーに流行が移行してしまうことと時期的には符合してしまうんですけどね…。ジャズ喫茶が何故減っていったのかも、感覚的には理解できても、なかなか納得のいく説明はできないんです。個人がオーディオセットを購入して、各家庭で音楽を楽しむ環境が整っていったのは1960年代から70年代にかけてですが、FM局が流行るのは70年代、FMも各地にローカル局ができていったのは1982年前後です。結構幅があります。音楽を楽しむ環境が整った時代と符合するのは当然かもしれませんが、料亭まで廃れるのは納得がいかないんです。掘り甲斐のある分野です。

ちなみに、ずっと以前から風俗的な部分の歴史を紐解くときに参考にしている江戸東京風俗地理ですが、この辺は元吉原の記述に少し出てきますが、あまり詳述はしておりません。残念です。個人的見解が多い書物で、資料的価値は低いかもしれませんが、この本、結構面白いんですけどね。この第二巻では歌舞伎座の立ち上げ時のカネに関する記述が大変面白いです。

最近では歌舞伎はすっかりハイ・カルチャー扱いですが、昭和40年前後の感覚で書かれているこの辺の文章では、江戸時代からの流れを汲んでもハイ・カルチャーとは言い難い表現が頻出します。こういった感覚の移り変わりなどというものを研究している方はいらっしゃいますかね。200年くらい生きてないと、同じ感覚で比較できませんかね。…無理ですかね。自分にとっては、その辺の興味が、実はこんなことをやっている原動力なんですけどね。


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