見出し画像

Surrender 2020年5月2日(土)

タトゥーを入れるなら、この言葉。という言葉が増えた。”Surrender”。

Surrender:
1.降伏する、降参する、捕虜になる、自首する
2.(感情・悪癖などに)身を任せる・委ねる・負ける

わたしは、わたし自身や、わたしという個体に宿っている意識が生きているこの世界・人生を、制御できていない。それを悟り、受け入れること。

わたしにできるのは、身を投げ出すこと、あきらめ、委ね、放り出すこと、世界に対して自分自身を明け渡すこと。

わたしがわたしを、わたしの人生を統率しているという感覚を手放すこと。

”Surrender”はわたしにとってそういう意味だ。

このコロナ禍の中にあって、不安になる題材には事欠かない。種々雑多な・・これまでも不安だったこと、コロナのニュースを追う度に増す性質の不安、ただなんとなく無気力から抜け出せなくなって無為に浮かんでくる不安。ふと顔を覗かせた不安の姿かたちに、射竦められたようになってしまう時間がある。

ひとつ救いなのは、これは、わたしだけに起きていることではなく、顔を上げて目に入るランダムなマンションのランダムな部屋の住人も、きっと経験していることであろうということ。不安や苦悩は、個人のうちにしか見出されない、純粋に孤独なものだと思っていた。コロナが流行していても、していなくても、誰もが不安を抱えている点では同じはずなのに、コロナが訪れたことによってわたしたちは、他者の不安や苦悩を、自らのうちに感じられるようになった。「これはわたし・あなただけではなく、この世界中のみんなが経験していること」。それはある種、コロナが世界にもたらした唯一の美しい副作用であると言えるかもしれない。

不安に対処するすべとして、このように、自らの不安を、他者・集団・世界の不安に内包させて相対化するマインドを持つこと。

それに加え、この”Surrender”の感覚に身を浸すこと。

この2つを忘れないようにしようと思った。

”Surrender”という言葉の美しさに気がついたきっかけはLUSHが公開したこのドキュメンタリー映像だ。

Photo:We the Bathers

最初に登場する母親がこう言う。

And this amazing realization came to me whilst I was swimming in the pool.There was almost a bit of a fear I wasn't  get to the other side before the tide came over and I would get stuck.
And I just paused in that moment and surrendered to it.I just surrendered to that feeling of actually not being in complete control of a situation.
I just kept thinking "This is so similar to giving birth."
You have to just surrender. You have to surrender your whole body and mind to something else that completely takes over.

まるで詩のようだし、mindfullnessやyoga、瞑想の本質を端的に表現した言葉だ。手放すこと。委ねること。”control”できないという現象に、降参すること。

誰しも、自分の人生を自分でどうにかする前提で生きていると思う。

わたしたちの不安は、「病気になったら、仕事が無くなったら、お金が無くなったら、あの人に捨てられたら、家族を失ったら、どうしよう」という形で叙述される。「どうしよう」というセンテンスは、自分を主語にとった「どうにかしなきゃ」という思いと裏表だ。

でも、本当のところ、どうにもできないかもしれない。

どうにもできないなんて、恐怖でしかない。だからわたしたちは、どうにかできる前提で、どうにかしようと思って、不安になる。

でも、でも、どうにもできないかもしれない。

そもそもこの世界は人間の力ではどうにもできないことだらけなのだ。

コロナ禍でわたしたちが少し賢くなるとしたら、「どうにもできない」ことを知覚することだと思う。概念上主体と客体を切り離して以降、わたしたちはこの惑星も、自然も、生態系も、原子も、宇宙も、自分たちの肉体も、精神も、「どうにかできる」客体だと捉えてきた。だが、人間には「どうにかできない」ことがあるということを、わたしたちは再び学ぶのだと思う。

「どうにもできない」ことを悟った時、「どうにかできない」ことに面した時、その時こそわたしたちが強さを発揮する時なのだと思う。その時の自分たちを信じるべきなのだと思う。

だから、”Surrender”すること。

自分の不安の原因を「どうにかしよう」とするのを手放すこと。どうにもならなくても、その時もきっと生きていて何かするだろう。その時に発揮するのが真の強さでしなやかさであるだろう。その時の自分をささやかに信じて今は、訪れた不安をlet it go.

ある朝の瞑想で、この”Surrender”を想起したら、清浄な滝で洗い流されるような、身体と心が融解して流れ出していくような感覚が訪れた。

わたしの身体と心を制御している気になっている統率好きの左脳を少しの間黙らせて、わたしは、世界だか、神だか、Ishvarapranidhanaだか、涅槃だか、なんでも良い、わたしがわたしと認識している分子の塊を、わたしという皮の内側に集まったその分子たちを、放り出す。そもそもわたしという境界を認識しているのだって、脳の一作用でしかないのだ。その境界ごと、放棄する。

それは素晴らしく自由で、清々しくて、解放的な気分だった。

ここから先は

0字

33歳、新卒入社11年目にして、終わらない「自分探し」をする皮肉屋の冷笑家です。自嘲気味ながらも、墓場に自分を探しに行く、そのグダグダな軌…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?