西野

何かをするには何かを捨てる必要がある

西野

何かをするには何かを捨てる必要がある

最近の記事

理解とは誤解の総体であるか。

「理解とは誤解の総体に過ぎない」とはどういうことか村上春樹が幾度も言及しているこの言葉ですが、そもそも理解とは何に対して行われるものでしょうか。 理解とは、物事の道理に対するもののようです。例えばその対象は物性物理であり、他者の行動や感情であり、法律であり、あるいは文章であるかもしれません。とにかく広く世界の物事を指すものです。 村上春樹は文筆家なので、ここでは文章について考えます。 文章を理解するという行為 作者と読者の間には、どうしても一定の距離が存在せざるを得ま

    • 片付けのマインドセット

      僕はいま必死に部屋の片付けをしていて、疲れたのでこれを書き始めています。 誰だって出来れば片付けなんてしたくないですが、整理整頓したはずの部屋はいずれ乱雑さを増し、放っておくとその逸脱は耐えられないところまで行ってしまいます。 さて、まず片付けは散らばったものを収納することではありません。 片付けの基本は物を捨てることです。収納は時間さえかければ誰でもできますが、捨てるのはとても難しいことです。 結局のところ、全ては価値観の問題です。 思い出のものや、いつか使うと思

      • AIは村上春樹っぽい文章を書けるか?

        どうでしょうか。若干メタいですが、悪くない出来かと思います。固有名詞も多い。ただ横文字の多さに由来する読みにくさが引っかかりますね。 主人公が東京の大学生という、おそらく村上作品(特に短編)に頻出する舞台設定での文章だと解像度が上がったでしょうか。読みやすさもアップしたと思います。 読むに耐えるなかなか悪くない文章ですが、村上作品とは何か違いますね。 何が違うんでしょう? あくまで肌感覚での話にはなりますが、たぶん主人公の心情描写の不足があると思います。村上作品といえ

        • 軽々と文理越境してみたいよね

          僕たちはなんだか文系/理系という枠組みに縛られ過ぎています。そうは思いませんか、皆さん? そもそも文理は高校のカリキュラムと大学受験というシステム上の都合上、便宜的に設けられた枠組みに過ぎません。そんなただの枠組みに文系/理系という便宜的な区別のための名称が作られて、そこにアイデンティティを持つ人もいるので不思議なものではあります。 インターネッツを見れば自分は文系だから〜できないとか、理系だから感情的にならない、とか書いてあるんです。もうね、アホかと。馬鹿かと。当たり前

        理解とは誤解の総体であるか。

          子供を納得させられますか

          なぜ本を読まなければならないのか? とか なぜ理系にも文系の勉強が必要で、文系にも理系の勉強が必要なのか? とか なぜ教養が必要なのか? とか聞かれた時に、僕はこれらの質問に対してうまく答えることが出来ない。 必要なことはよく分かるのだけれど、論理的に子供を納得させられる説明が出来ない。 もちろん、こういう質問はもう随分長いこと擦られているものだから、教育業界の人や文化人みたいな人によってそれなりの回答が用意されている。子供に聞かれたら調べてそれをそのまま答えれば良いだけ

          子供を納得させられますか

          美術作品はどこにあるんだろうね

          先日ちょっと炎上したニュースがありました。 美術作品をデジタルアーカイブできるなら、現物は処分しても構わないという論が行政から出たらしく、これに対して専門家は「裏付けとして現物を持っていることは必要だと指摘した」そうです。 裏付けとして? もしかしたら今後の美術作品の現物は、デジタル化されて展示されている美術作品が実在する証拠としての現物、と意味合いが変容するのかも知れません。 なかなか味わい深いですね。 僕は基本的に、美術作品のデジタル化の目的は現物が経年劣化や戦

          美術作品はどこにあるんだろうね