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東京の街はサイクロトロンでした。

こんにちは。ぎんじろうです。

この夏休みにインターンシップで東京に行く機会がありました。一人で東京に行くというのは生まれて初めてで、それも1週間以上の滞在です。このnoteでは、東京の街についてそのときに感じたことでも書いていこうと思っています。

私は生まれも育ちも金沢、大学は京都。東京には縁のない20年を送っていました。そのためこの短い滞在期間でも新鮮な驚きがたくさんありました。

タイトルに「東京の街はサイクロトロン」とありますが、さあ一体どういうことなんでしょう。私の東京滞在譚、ぜひ楽しんでいってください。

東京の地下鉄は鴨川であって鴨川ではない

出だしから少々哲学的な見出しではありますが、東京の地下鉄と鴨川の空間的な性質を比べると少し面白い発見がありました。この二者には似ている点と明確に異なる点があります。

そもそも鴨川とは、京都市内を流れる河川です。鴨川の河川敷や鴨川デルタは市民の憩いの場となっています。また「鴨川等間隔」という「カップルなどが一定の間隔ごとに座っている現象」が観測されることでも有名(?)です。

まず、似ている点は2つあります。一つは多様な人々が共存しているところ、もう一つは人々がお互いをいい感じに無視し合っているところです。

鴨川の凄いところは、お互いのスペースを自然と尊重し合うところなんですよね。それでいて、ふとした時に一体感を覚えることもある。

(こちら👇のツイートからカオスな雰囲気を感じ取れると思います。)

通勤の時間帯の地下鉄はサラリーマンが多数を占めていましたが、それでも退勤の時間帯や休日の電車は色んな人が乗ってくる/降りていくなと感じました。ご高齢の方、小学生、カップル、家族連れ、外国人、、。

サラリーマンなど一人で電車に乗ってきた人の大半は乗車中ずっとスマホに目を落としているので、車両内は基本的に「一人ぼっちが集まった」という感じです。

それでも「みんなそれぞれ駅で降りた先に何か用事があるんだろうな~」と想像すれば、同じ車両に乗り合わせたというだけで少しの仲間意識を感じることができました。これがいい感じに無視し合っているの「いい感じ」の意味です。

しかし、東京の地下鉄と鴨川では全く異なる点も2つあります。一つはなんか急がせてくる空気、もう一つはなんか冷たい空気です。これではさすがに語彙力が残念すぎるのでちゃんと説明します。

なんか急がせてくる空気を特に感じたのは、通勤の電車を降りて駅の出口に向かっているとき、つまりビジネスパーソンたちの歩く隊列に混ざっているときです。

簡単に言うと「みんな歩くの速いな」ということなんですが、もっと言葉を補うと「会社に行きたくないと思っている人が、自分以外の全員が一心不乱に駅の出口に向かっている様子を見ていると、"お前もはやく会社に行け"というプレッシャーを感じてしまうんじゃないか。」ということです。

これは、もう一つの「なんか冷たい空気」とも関連します。

きびきびと歩いているビジネスパーソンたちは意図せずに「いいからお前も歩け」という無言の圧力を弱っている人間にかけている。そして、まったく意図してないからこそ彼ら彼女らは決して心配や気遣いのまなざしを弱っている人間に向けない、という。

この無慈悲で冷酷な感じが容易に想像されて、なんか冷たそうだなと思いました。(「だから東京はクソ」と言いたい訳では決してないというのは付記しておきます。こういうのは東京に限った話ではないですし。)

鴨川の河川敷に腰を下ろして談笑したりスマホをいじったりしているときに自分の目の前に他人はいません、川があります。鴨川では近くにいる人と背中を預け合う信頼関係のようなものを感じ取ることがあります。

鴨川の河川敷に座り込むカップルは人間だけではありません

しかし、東京の地下鉄にはそれがない。むしろ東京の地下鉄は向かいの席に座っている人と互いに監視し合い、隣の席の人とは肩が触れるか触れないかという緊張関係が続きます。

スマホがないとどこに目線をやればいいかわからないからスマホを見るし、何か音がないと何を聞いていればいいかわからないからイヤホンで音楽を聞く。電車のなかではこのような力学も働いています。

座ることができれば私は十分電車の中で自由だと思っていたが、鴨川にいるときの自分と比較することで「実は不自由なのかもしれない」と疑うことができた。電車とバスを比べようと思うことはあっても電車と鴨川を比べようと普通に生きていたら思わないので、これは個人的に貴重な収穫です。

たかが移動手段の地下鉄に、鴨川のような平和的で牧歌的な雰囲気を求めるのは恐らくお門違いなのでしょう。

しかし、東京の街において「広場」たりえる公共空間は、皇居でも代々木公園のような広い公園でもマスクを外そうという声が聞こえてくるメインストリートの交差点でもなく、東京メトロなのかもしれない。

東京メトロと鴨川が重なってみえた私はそんなことを空想してしまうのです。

東京のど真ん中で盆踊り祭を見られるとは
公園はいつだって市民の憩いの場です

東京の千代田区はチート

東京はやっぱり政治、経済、文化の中心なんだな~、何でも揃っているな~、というのは感じざるを得ませんでした。

東京に来て初日、国会議事堂などを直接見たくて、霞ヶ関~永田町辺りを散歩しました。歩いていると、この辺りに知ってる建物が山ほどある!

右見たら財務省と厚労省、左見たら文科省と外務省、あっあちらは農水省ですか、なんてことを考えながら歩いていたら、あっという間に国会議事堂の前に到着。

門の前で警察官の人がなんもないのに警棒を持ちながら立っていた。
「警棒ってそんなホイホイ抜いていいものだったの!?!?( ,,`・ω・´) カジュアルに市民を威圧するの止めてもらえます!!?笑」
と心の中でツッコミ。

でも確かに、もし国会議事堂の門をテロリストに突破されでもしたら、それこそ朝刊の一面を飾るレベルの大失態だし、門の前に立っている間は警棒くらい手に持って武装していないと緊張とプレッシャーで気が気でないよね。

そう思い直して心の中で敬礼、ご苦労様です。

このあと「門から離れてください」と言われます

そんなこんなで暑くてのどが渇いてきたので、少し休憩するために国会議事堂前の庭園?公園?に侵入。そこで見つけたのは「日本水準原点」。緯度経度とか標高とかの地理統計の基準になっているらしい場所があった。

この辺りにある公園は公園ですらただの公園じゃないんかい!!と思いながらまた歩く。そして割とお目当てだった国立国会図書館に到着。訪れた日が休館日だったので中には入れなかったけど、行けてよかった。

ていうかこの図書館に通える東京の大学生はうらやましいぜ。読みたい本や資料がすぐに読めるっていうのは勉強したい人にとって最高の環境なの。

その隣には最高裁判所があって、そのまた隣には国立劇場があって、すげーなこの辺、なんてことを思っていたら地図で麹町中学校を発見。「こんなところにあるんかい!ただの公立の中学校じゃないやん(冷)」と思った。

ちなみに麹町中学校とは、工藤勇一さんという方が校長のときに宿題や定期考査、服装頭髪指導、担任制など「学校のあたりまえ」を次々とやめていったことで有名になった学校です。

こちらの試し読みだけでもぜひ👇(アフィリエイトではないですw)

東京の街はサイクロトロン

千代田区のチートっぷりを感じたの日とは別の日に上野へ行ったときは「なんかもう……ずりーよ。。」という感想が最初に出てきました。

上野駅に降りた瞬間に、上野動物園と西洋美術館と科学博物館と文化会館が私の方を見ながら「ここが †文化の集積地† だよ~、地方民は気軽に来れなくて残念だね~。ニチャア」って悪口言ってきた。
(流石に言い過ぎw)

上に書いたような「なんとなく裕福な家庭が親子連れで行きそうな場所」だけじゃなくて、東京には若者文化の総本山である原宿があります。新宿、渋谷、六本木とかはお店が多くてショッピングが楽しそう。

東京にある子どもや若者が喜ぶ場所なんて、例を挙げはじめたらきりがない。

東京は美味しいご飯屋さんも山ほどあります

若者が集まる場所は流行、情報、会社、さらなる人が集まる。そして文化や産業において東京は最先端を走り続ける。都会の人を「進んでいる」と表現することがあるのは、こういう背景があるのだと思う。

私は東京の街を「人生を加速させる装置」と表現したくなった。

さて、タイトルの伏線回収のために一旦ここでサイクロトロンの説明をしましょう。

サイクロトロンとは、荷電粒子を加速させるための円形の加速器の一種です。基本的に荷電粒子が地球の公転みたいにぐるぐる回っているんですが、半周するたびに加速して公転半径が大きくなって、加速して公転半径が大きくなって、というのを繰り返すというのが特徴です。

この写真を撮るために実家の本棚から物理の教科書を引っ張り出してきた

ただ加速するよということを言うだけなら他の暗喩でもよかったかもしれないけど、サイクロトロンには「加速装置」以外に象徴的な意味が二つありました。

一つが環状線つまり山手線のイメージ。これはなんとなくわかると思うし、あえて多くは語りません。サイクロトロン内の荷電粒子の軌跡が円形というところから、山手線つまり東京を連想させるということです。

もう一つが、サイクロトロンの軌跡のような渦巻き的な時間感覚がまさに現代人の持っている時間感覚なのではないかということです。

時間感覚と聞いてすぐに思いつくのは、時間は循環し繰り返すという自然主義的で原初的・前近代的な「円環」のイメージや、時間には始まりと終わりがあるという反自然主義的で近代の進歩史観とも親和性の高い「直線」のイメージだと思う。
(急に小難しい話になってワロタ。もう少しお付き合いください…🙏)

時間の回帰性(円環)と時間の不可逆性(直線)を両立させた渦巻き的時間感覚は、言うなればポスト近代的・現代的な時間感覚で、地球環境と調和しながら科学技術を発展させようとする(SDGs的な)精神性ときっと無関係じゃない。

というか、わざわざこんなに難しそうに論じなくても、「"一年たったらひと回り大きくなる"のって人生みたいじゃないですか?」と言えばよかったかもしれないですね。

東京の街がサイクロトロンのようだというのは、東京で生まれ育った子どもは様々な文化や資源や情報に触れてすくすくと成長するんだろうな、という話です。そのうえで!一番伝えたいと思ったのは今から書くことです。

それは、都会人と地方民では人間の性質的な何か質的に違うわけではなく、単に早く育ったか早く育っていないかの違いでしかないのではないかということ。

いちご栽培で例えるなら、都会人が「あまおう」で地方民が「とちおとめ」ということではなく・・・・・・・・・、あくまで「あまおう」をビニールハウスに入れて育てたのかそうでないのかの違いということ。

そして、都会人と地方民とは本質的に違わない、という気づきからは更にいくつかの気づきを抽出することができます。

  1. どこで生まれるか、どこで育つか、どこで暮らすかという地理的環境もまた、親の学歴や世帯収入と同様に「子ども本人が変更できない初期条件」であるということ。

  2. そのため、地域間で教育格差など様々な格差が生じないようにすべきだということ。

  3. そして、このようなことを私に再認識させるほどに、東京の街は圧倒的に「何でもあった」ということ。

東京は地平線まで大都市


これは東京から遠く離れた山奥の集落
私の母の生家の近くです

ここまで、東京の街はサイクロトロンのようだ、という話をしてきました。

地下鉄で感じた「なんか急がせてくる空気」も含めて、良くも悪くも東京の街は私たちの人生を加速させてくれるように感じます。

上野の国立科学博物館に行きました
ここにあるサイクロトロンの展示を見て今回のnoteのタイトルの着想を得ました

ここまで読んでくださりありがとうございました。今回のnoteはこれでおしまいです。

ぜひ次回作にもご期待ください。

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