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小さなからだ(イタリア映画祭2022)


お久しぶりです。
イタリア映画祭2022上映作品を記録。いつか配給が決まりますように。

インスタで投稿ばかりしていたのですが、これからはここに戻って記事を書いていきたいと思います。インスタより読みやすいですし、記録として残りやすいと思ったので。
もし興味あればインスタもフォローしてくださいね。
@cinema_esse


本記事では、私がイタリア映画祭2022にて一番おすすめしたい作品を紹介します。

作品概要

小さなからだ

[2021/89分]原題:Piccolo corpo
監督:ラウラ・サマーニ Laura Samani
出演:チェレステ・チェスクッティ、オンディーナ・クワドリ

実際に見たからかもしれませんが、私はこのトレーラーを見ただけで目が潤んでしまいます。この作品は涙してしまう部分が随所にあります。

もう素晴らしい。

20世期初頭。まだ迷信めいたものがたくさん信じられていて、女性が汚らわしいものと捉えられていたイタリア北部 フリウリ地方での話。

まだ女性が弱き立場の時代、その狭き社会に囚われながら、なんとか自分の意志を貫こうと、底力を出し切るように苦難の旅に出る、産後まもない女性の話。

なんとなく皆さんがイメージしないイタリアかもしれない。しかしイタリアも意外に男尊女卑が強く、こういうものが根底に流れていることもわかる気がする。


<あらすじ>


1900年初頭、アドリア海北部のある島でアガタという女性が娘を死産をする。死んでしまった子どもは洗礼を受けることができないと神父に告げられるが、それを諦めきれないアガタは、洗礼を受けさせるために一瞬赤ん坊を生き返らせる教会がアルプス山の奥の方にあることを、島の賢者より知り、産後すぐにもかかわらず誰にも告げずに一人、いつまで続くかもわからない苦難の旅に出る。

<解説・レビュー>

アガタはなぜ子どもに洗礼をここまで受けさせたいのか

カンヌ国際映画祭の批評家習慣にてプレミア上映をされるほど、鮮烈なデビュー作をこの女性監督は残した。トリエステ出身の彼女ならではの、北イタリア・フリウリ地方の独特さが、かえってイタリア映画らしさを封印し、万国共通の源のような(とくにキリスト教の根強い地域における)話として観客に伝わったように思う。

そうこれはかなりキリスト教色の強い映画なので、日本でどれだけ受け入れられるかは疑問。しかし一方で女性、とくに子どもを持つ母親は共感をしてなのか、なんなのか、涙してしまう人は多いのではないだろうか。

まず、疑問を解消しておくともっと見やすいかもしれない。なぜアガタは子どもに洗礼を受けさせたいのか。

洗礼を受けない子どもは天国に行けず、辺獄(Limbo)にとどまるとされている。辺獄というのはあまり馴染みがないと思うのだが、煉獄とも違い、煉獄も辺獄も天国と地獄の間にあることは同じなのだが、煉獄は天国に行く予定の人たちがいる場所である。
ダンテの「地獄編」では辺獄が地獄の上層にあると描かれており、洗礼を受けなかった幼児やキリスト降誕以前に死んだ善人の霊魂が収容されている。ただ、カソリックの公式教義的なものではないようで、ダンテのこういう描写もこのような教え、伝承に批判的な意味も含まれていたのではないだろうか。

つまりアガタは死産した子どもを天国に行かせたかった。

それもアガタはカソリックを強く信仰していて、死後の世界を信じていたため。これは当時は一般的な感覚であったのだろうが、私には弱き立場の人がカソリックに囚われて過ぎているようにも見えなくはなかった。


本作における奇跡(Miracolo)とは

ところでイタリア映画において、Miracoloは頻出単語である。イタリア映画をみているとよくおばさんがびっくりしながら走り回って
「Miracolo---!Miracoloーーー!」と叫び村人たちに言い振りまくシーンがよく出てくる。
例えば貧乏な家庭に大金が落ちていた。これも「Miracolo--!」と言われる。あまりにも奇跡という言葉が頻繁に使われ過ぎて陳腐化している感もある。

しかし本来、奇跡とは超自然的な現象であったり、一般には神的力に帰される異常な驚嘆すべき出来事をいう。カソリックの場合、聖書の中でキリストが病人を治したり、死んだはずのキリストが復活したり、そういった奇跡に対しての信仰が信者を増やすことにつながったのだろう。これは他の宗教にも共通する。

ただ現実主義的観点から言うと、キリストは本当に復活したのだろうか。

私はこれを考えはじめると、ロッセリーニ監督の「アモーレ」という映画の中の「奇跡」というアンナ・マニャーニとフェデリコ・フェリーニが(出演時間は短いが大変重要な役で出てくる。脚本も担当している)出演の短編映画を思い出す。今考えると、この「小さなからだ」のアガタはなんとなくあのアンナ・マニャーニと通ずるところが無きにしも非ず。

主人公の女性はひつじの番の間に、ある浮浪者に会うのだが、どういうわけか聖人が現れたと勘違いし、そのままそこで関係を持ち、のちに身篭ってしまう。彼女はこれは神の子と信じ、みんなに馬鹿にされながらも一人出産する。

こういうこととして考えたい。キリストは現実には復活していない。彼の復活を信じ、信仰を続けたその弟子や信者の存在それ自体が奇跡と言えないか。

そうなってくると、さて本作では何が奇跡だったのか。

アガタとは

アガタという名前は象徴的、おそらく聖アガタから来ている。それは彼女の乳房があまりにも多くのシーンで露出するからである。

聖人とは信者として模範的である人で、大抵は苦難を強いられ、何か犠牲を払い、迫害されても信仰を貫きそのまま殉教することで、聖人と認められることが多い。聖アガタも信仰を咎められ、乳房を切り落とされる拷問を受け、殉教したという逸話が残っている。

アガタは物語中で子どもをなくし、途中で乳母として売られ、女性らしさを捨てることを余儀なくされ、血を失い、髪の毛を刈られ、最後命を落とす。そして最後彼女はおそらく神の領域へ召喚された。

これはアガタが聖人となるまでの苦難の旅だったのではないか。

そして本作品は男性がほとんど描かれておらず、(出てきても少し、声だけとか。アガタの夫の印象の薄さよ。)女性のキャラクターが印象強い。ほかにも乳母を買う女、美貌を振りまくようなジプシーの女、神を伴侶とし生きるシスターなど。人間としてというよりも、さまざまな境遇で女性として役割を果たしている人々が配置されている。

そしてリンチェ。聖地がどこにあるか全く検討ついていないアガタが藁をもすがるように道案内を頼む少年なのだが、出生や家族も不明で1人で行動し、自身の名前を「Lince(オオヤマネコ)」と名乗り、そのあだ名が示すとおり、どこの輩かわからない。アガタは序盤、彼に騙され、乳母として売られてしまうのに、最終的には信頼を置くようになる。
彼の存在は閉鎖的な社会から解放され、そして自由度は高く、感覚としては私たち現代人に近いかもしれない。観客の目線がだんだんと彼に重なるかんじが、この映画を実は見やすくしている。彼が意外にも重要なキーパーソンであることに、キャラクター設定の奥深さを感じる。

ちなみに本作品は、職業的俳優でなく、ほぼ素人にフリウリ語にて演技をさせている。それがほんとうにうまく本作品には作用していると思うし、ネオレアリズモ映画も思い出させる。

おわりに

アガタに襲いかかってくる苦難の数々は見ていてとても辛いものだが、しかしところどころで観客の気持ちが救われるところがある。まずはジプシーの女に見逃されるところ、そして案内人のリンチェと人として交流し始める林の中である。

そう言う場面で撮られている自然の姿は優しい。包み込むようである。
しかしときに突き放すような冷たい雪山や、凍りそうな湖もある。この映画は雄大な自然でさえも女性らしい。

フリウリはなかなか行く機会がないが、この山奥の風景は本当に美しい。カメラワークも素晴らしい。ところでこのあたりってどこか東欧らしさがある。(衣装も私は個人的にものすごい好み。)

信仰とはなんだろうか。アガタはそのとき神を信じていたのか。なぜ湖であれだけ大切に抱えいた木箱を流してしまったのか。

正直全貌はわからない。もう一度みたい。これを何度もみることができる環境にある人を羨ましく思う。細かなところが疑問として残っているし、私が何に感動をしたのか、その言語化は完全にできていないし、もしかしたら言語化できないものもあると思う。

私はこの映画を産み落としてくれたラウラ・サマーニに感謝するし、イタリア映画祭に持ってきてくれたイタリア文化会館、そしてこの聞き取れないフリウリ語を含め、翻訳してくれた関口英子さんにもひどく感謝している。

◉告知


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7月8日(金)22:00〜1時間
参加費:無料(参加URLをPetixより入手してください)

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