「大工さんがバナナの歯磨き粉を忘れる」歌を味わう
先日、ツイッターで「バナナの歯磨き粉」がトレンド入りしていた。
これは、オモコロの動画で、原宿さんが不動産川柳の公募用の川柳を読む機会で、次の歌を詠んでいたことが影響したようだ。
この歌と、国宝の屋根裏の大工の忘れ物のニュースをからめて、思わず原宿さんの歌を知る人たちが、「バナナの歯磨き粉」とつぶやいた、ということだ・・・
しかし、それにしても、この歌、すごくよくないですか?
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」より、最近の私の心に響いた。
実際、ツイッターでの反応を見る限り、非常に人気だ。
しかしながら、この歌は「意味不明」「どういうこと」「何があるあるなんだ」ということばかり言われている印象があり、解釈を真面目に書こうとする人が、誰一人いない。 それでいて、なぜか心を打つと評判だ。
ならば、私がやろうではないか。真面目に。社会人の平日の夜に。
バナナの歯磨き粉と向き合って解釈しよう・・・。
(私自身、何故今やっているのかわからないけど・・・)
●「大工」「僕」は何者か?
大工が、どのような立場であったのか、いくつかの仮説が建てられる。
主に、上記の、①②のいずれかの理由が考えられるだろう。
いずれにしても、「僕」と「大工さん」の距離は、「近くでその働きぶりや日常生活を垣間見ていた・知っていた」と言えるくらいには近いのではないか。何しろ、「歯磨き粉」という日常的なアイテムの持ち主が「大工さん」だと、「僕」は気づけるほどだからだ。
少なくとも、<「大工さん」と同様に、「僕」も「大工」である>可能性は小さい印象を受ける。大工が同じ職種の人を「大工さん」などというどこかあどけないような言い方をするところを想像しにくい。
この仮定を前提に想像の翼をはばたかせたい。
「僕」は「大工」ではない。そして、「僕」はまだあどけない少年だ。
しかし、「大工さん」の仕事ぶりや生活ぶりを知っている。
つまり、「僕」にとって「大工さん」は、「大人の別世界を知る人」だ。
もしかすると、「憧れや畏怖心、好奇心の対象」かもしれない。
「手際よく木材を運び、金づちを叩く大工さん」を見て、
「わ~鮮やか!かっこいい大工さんだ!」と身近な場所で見て思ったことがあるかもしれない。或いは、「わ~、厳しい表情で色々やってる!きっと怖い人なんだろうな・・・」と意識したのかもしれない。
●「バナナの歯磨き粉」が産む効果
さて、「僕」にとって「憧れや畏れ、好奇心」を感じる、別世界のプロの大人である「大工さん」だが。よりにもよって「バナナの歯磨き粉」を忘れちゃうのである。
これは明らかに、「大工さんへの親しみ」の効果を生むのではないか。
大工さんが、「バナナの歯磨き粉」を使って歯を磨く人だとしよう。
そもそも、フルーツの味の歯磨き粉を大人で使っている人は多くない。
「からいのが苦手だから、フルーツのバナナの歯磨き粉を使っちゃう」という大人がいるのを知った時、あまりのくだらなさに、誰だって思わず笑っちゃうことしかできないのではないか。
(仮に、「クリアクリンのミントの歯磨き粉」なら、笑う気持ちはわかないだろう。)
あるいは、大工さんに子供がいて、その子供のために「からくない、バナナの歯磨き粉」を買ったのかもしれない。それはそれで、人間的な思いやりである。親しみがわく。
そのうえ、「大工さん」は「忘れていった」のだ。
あまりにも、人間的なドジではないか。
するとどうだろう?「憧れや畏怖」を抱きつつも別世界の住人のように感じていた「大工さん」が、「僕」にとってぐっと身近に感じられてきたではないか。
●「僕の心」にどんな「音楽が鳴った」のか?
「僕の心に音楽が鳴った」とはどういうことか、想像したい。
「心の琴線に何か触れるものがあって、心動かされたよ。」という意味合いで捉えることがまずできるだろう。
それと重ねて、この「音楽」とは、「大工さん」としての「大工の仕事の作業の音」でもあると、イメージを膨らませてみるのはどうだろうか?
木材をギコギコと切る音。釘をトントントンと打ち付ける音。何かを削る、シューッという音。これらを「音楽」と「僕」が表現してみたとしたら、どうだろう。
すると、<「バナナの歯磨き粉」を見て、「音楽が鳴った」>とは、イコール、<「大工さんが作業をしていた時のこと」を思い出している>のだ。
その思い返される、大工さんの作業音が、バナナの歯磨き粉の忘れ物に気づいた自分にとっては、なんとも人間味あふれて聴こえてくることよ。
それは、少年の「僕」にとって、明るい喜びとは言えないだろうか?
分かり合うのが難しいと感じられた(別世界の人と思っていた)大人の他者が、意外と大して変わらない親しみやすい人間だった、と発見したのだ!
●「僕」は「大工さん」と再会する日は来るのだろうか?
さて、「大工さん」の忘れ物である「バナナの歯磨き粉」に気づいた「僕」。これから、どのような行動を取るのだろうか。
「僕」が「大工さん、忘れてましたよ!」と伝えるとしよう。主に、以下の2ケースが考えられる。
① の場合、生じる関わりは、ほんのわずかだ。
なにせ、生まれた接点というのが、ただの「バナナの歯磨き粉」なのだから。あまりにも淡い。くだらない静かな予感が、静かに胸に染みいる。
②の場合、例えば「僕」の家の建設に関わるお仕事を「大工さん」は完了していて、もう来ることがないのかもしれない。なにせ、「たかだかバナナの歯磨き粉」なのだ。そんなものをわざわざ取りにやってくる時間を使う大人は、そう滅多にいない気がする。個人的には②の解釈が好みだ。
何気ないことで親しみを感じることができた、かつて憧れつつもちょっと怖かった大人、しかし、もう会うことはない。急に人間的に捉えられるようになった、あの大工作業の音たち。
もっと大工さんと話せばよかったのかな?意外と普通の人なのかな?どんな人だったんだろう?しかし、時は二度と戻らない。。。親しみを感じた喜びと、時が戻らない悲しみ。あまりに良いハーモニー・・・
●これは、「あるある」である
「あるあるをね・・・」ということで出されていた作品である。
どこがあるあるなんだ、と言う風な受け止められ方を、されていたようだが、ある意味、あるあるの物語であると、私は考えたい。
遠い世界の住人と思っていた人と接点を持ち、意外な親しみやすさを発見して喜ぶ。それでいて、二度とは戻らない過去。甘くて苦い過去への後悔は、「少年期のあるある」と言えよう。
●「拝啓、ジョンレノン」を連想。
「拝啓、ジョンレノン」と言う歌を連想していた。
「僕」も「大工」も大して変わりはしない。
そんな気持ちで世界をみていたい。
・・・
社会人が平日の夜に、何故、何のためにこんな文章を書いたのか、
書いた本人にもよくわからない。
しかし、そういう狂った行動をさせる魔力がこの歌にはあったのだろう・・・。
おやすみなさい。
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