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軽薄な日々の楽しいことだけ

Twitterをやっている演劇関係者のあいだに激震が走った昨日、発言した本人(演劇の権威・野田秀樹先生)がニューヨークにおり、現在の日本の状況を理解していなかったことに崩れ落ちた今日。(みんな知ってた?)

演劇界という狭く閉鎖的で権威的な業界体質に対して思うことは山ほどある。そもそも俳優の育成過程において、演出家の言うことに絶対服従するように教育されること自体がこの悪しき体質を増長させていると思う。……と言いたいことも山ほどあるが、わたしはわたしの生活をやることに決めた。今日は軽薄な日々の楽しいことだけを書きつらねる。

①ネイルに行っている
去年の9月から、ずっと行きたかったネイルに行き始めた。東京で働いていたころは映像の仕事に呼ばれたり、自分の舞台作品に俳優として出ることが2か月に一度ほどあった。やってきた役はいろいろだが、果たしてこの人はネイルをしているだろうか?と考えたとき、YESと自信を持って言えるキャラクターは無かった。
画面の中、もしくは舞台の上で、キャラクターがネイルをしていることはその役の固有の情報になる。作品の中で登場人物が身につけているアイテムはすべて、その人物を説明するのに必要不可欠だからこそ、物語の中に登場するのだ。
自分の役がそうではないのなら、わざわざやるべきではないだろう。と思っていた。ということでネイルをやってこなかった。でも、はじめた。ネイルをするようになった。

②髪の毛を伸ばして染めた
それまで一年ほど黒髪ベリーショートをやってきた。
髪色に関しては明るい髪色に飽きたという理由がほとんどだが、髪の長さに関しては自分の好みで決めたわけではなかった。単純に言ってしまえば、2018年に出演した若手女優のぶっちゃけトークバトル!といった内容のひな壇バラエティに出るときにショートのほうが目立つだろうと思ったからだ。実際目立ったかどうかはわからないが、収録では自分以外にショートカットの女優はいなかったから良しとしたい。

その後ベリーショートを継続したのは8月の公演『光の祭典』のためだった。そして、それにまつわるインタビューのためだった。(詳しくは検索してください、貼ろうと思ったけど貼ろうとしたら動悸が止まらなくなったので、ごめんね)(記事にしてくださった小川たまかさん、小林明子さんは本当に親身になってくださって、救われる思いでした)

話を戻すと、わたしはやっぱり、お前が悪かったんじゃないかと言われることが一番怖かった。そして誰よりもわたしが、自分が一番悪かったと思っていた。
けれど『光の祭典』はお前が悪いと言われてしまったら最後、終演まで立てないような作品だった。だから≪何も言われなさそうな髪形≫にした。見るからにフェミニズムをやっていそうな、社会問題を扱っていそうな演出家っぽい感じの、女性っぽさから連想される媚びた感じと離れた、それでいて、純真でまじめそうな黒髪———。それは何よりも、演劇業界において何も言われないであろう髪形だった。「素材を見せるためにシンプルにしなさい」と言われ、若い女優がにっちもさっちもが黒髪を強要される演劇業において。女性演出家と言えば黒髪のショート、という思い込みで、茶髪の若い女をまじめにやっていないとレッテルを貼る演劇業界において。(なぜか金髪は個性派として攻撃されずそれどこから受け入れられていた)黒髪ショートがいちばん安全な髪形だった。選択肢はなかった。
ということでベリーショートを維持してきた。でも、それをやめた。髪の毛を染めて伸ばした。

普通の記事ならなんとか絞り出して3つめの変化も書くのだが、これはわたしの極めて個人的な日記だから、2つで閉める。

振り返ってみると演劇をやっていたころの自分は、自分の外見のなにかもを他人のジャッジに委ねていた。それには間違いなく、俳優としての育成過程において、演出家の言うことに絶対服従するように教育されることが影響としてある。
稽古場で演出家にとって「それらしく見える」ことがクリアできなくては、恐ろしい目にあったから。

劇団活動をストップして半年。ようやく10年以上かけてかけられた呪縛から抜け出せた。だから演劇(界という狭く閉鎖的で権威的なコミュニティに属すること)をやめて良かった。今後は、ただお客さんのためだけに演劇をする人になりたい。表現方法の一つとして演劇を選んでいるだけの人になりたい。というか、なる。実際、文章でのお仕事もふえてきたしね。だから楽しみにしててください。

「もし日本人のひとりひとりに守るべき、楽しい美しい暮らしがあったなら、それを犠牲にするような国にはならなかったはずだ。そういう暮らしを作りたい。美しい暮らしのための情報を提供する雑誌を作ろう。」
と、『暮しの手帖』の創刊者・花森安治は言った。

わたしは、こう思う。
花森安治の言うところの≪楽しい美しい暮らしを守る≫とは、権力者や、権威のある人間の命令を逆らわずに従ったりすることじゃない。ましてや横暴に耐えたり、彼らのかかげる大義名分のために殉死したりすることでは絶対に無い。
わたしたち一人一人が、楽しさや、美しさのある生活を、これまでと同じように享受するために、≪権力者に対して我慢しない・主張する・まちがっていることはまちがっていると言う≫ことなんじゃないかと思う。

芸術は安治の言葉を後押しするためにあると信じている。
けして演劇の権威の意見を全面肯定して、後押しするためにあるんじゃない。

とはいえわたしも昨日は忖度しまくってものすご~くオブラートに包んだ記事をあげていた。

ね、演劇教育を受けた人間がどれだけ演出家におびえてるか分かるでしょ?笑ってください。
でも、ちゃんと変わった部分もあって。わたしは先日、演劇の権威と言われるような演出家に理不尽に怒鳴られたとき、シラーとした顔ができた。そしたらその人の態度が変わった。急に、まるで対等な人にするみたいな態度になった。黙ってシラーとした顔をしただけなのにね。(ちなみに野田さんじゃないよ)
あの時、練習の成果が出てるなと思った。演出家に絶対服従しない練習。自分の楽しさ・美しさを守るために、抵抗する練習。

だから今無理だと思うようなことも絶対変わるし、変われる。信じてる、自分自身を。君も大丈夫。自分を信じてね。

ということで、今日もおやすみ!
早くマスクとメガネを捨てて、めちゃくちゃ派手なメイクと、きらっきらの春服で街を練り歩きたいね。好きな人と会ってお茶をして、最高の演劇を観たいね。俳優が演出家のもとで縮こまってない、しあわせな演劇をね。
明日も君が元気で過ごせますように。

よしもとみおり@yoshimoto_miori


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