立教ラブストーリー

ラブストーリーを書こうと思っている。あの一瞬、目と目が合い、世界が止まった日のことを。

ある夏の日のことだ。プラタナスの道で、試験が終わったばかりの僕はドビーストライプのワンピースを着ていた。買ったばかりのカンカン帽を少し目深にかぶっていた。今じゃそんな大学生はいない。けれど当時は確かにそういったロマンティクスタイルが流行っていて、僕は東武ホープセンターで買ったピンクベージュのカバンを持っていた。図書館は新しくなったばかりだった。プラタナスの並木で、僕はできたばかりの恋人を待っていた。まだ恋人と言えぬような間柄だった。

当時の僕は、泥沼となった地獄のような一つ前の恋を引きずっていた。けれど新しい恋の始まりが幾分痛みをやわらげていた。私はこのままあの人を忘れられるのかもしれない。と、カンカン帽を少し触って、僕は考えていた。

閑話休題。まさか10年も経った今でも引きずっているなんて。当時の僕が聞いたら卒倒しそうだ。だけど一つ言いたいのは、引きずっているのはその恋のことだけではないと言うこと。他の様々な出来事と共に「失われた幸福」として、僕は今なお「過去」という重い荷物を担いでいる。思い出は年々美しくなり、後悔の重量は増すばかりだ。プラタナスの恋人もずっしりと、その質量を主張している。

話を戻そう。僕が話したいのはプラタナスの恋人のことではない。僕があの夏、恋をした瞬間についてだ。相手は別の人だった。あの時、プラタナスの木陰にふと見たことのあるVANSが見えて、僕は顔をあげた。恋人に違いない、そう思った眼差しの先には、見たことのない男の子が立っていた。男の子、と、言うにふさわしい少年だった。垢抜けない服装がかろうじて、彼が付属高の生徒じゃないことを証明していた。

「あの、」と彼が言った。

「はい」と私が答えた。

その瞬間、蝉が止んだ。

僕は「恋人」という名前以上に下卑たものはないと思っている。その名前がついた瞬間に、二人はきっと色褪せてしまう。恋人との関係もそうだった。この安堵は緩やかな死と同等だった。手に入れられて当たり前の存在など、無いも同じだ。

だけど、あの瞬間、僕は少年の「恋人」になりたいと思ってしまった。

何故なのだろう。理由は思いつかない。だけど意味もなく落ちるのが恋ならば、まさしくあれが僕の初恋だった。静かすぎるキャンパスで僕たちはしばらく黙っていた。黙りあっていることすらも何か共犯めいていた。どちらから話そうか。まだこのまま黙っていようか。沈黙は甘美だった。お互いに目は離さなかった。僕と君の唇が同時に息を吸った瞬間、蝉は鳴いた。

「待った?」と声がした。恋人だった。ハッとなる僕。少年は何かを言いかけて去った。僕は「うん、待った」と笑った。笑いながら瞳の奥で少年の背中を追っていた。

プラタナスの並木を超えて、四丁を左に曲がった彼は、きっと一号館のトンネルを抜けて校門へ出る。そうして立教通りで、他の学生と紛れて。

僕たちは二度と出会わない。

後にも先にも運命という馬鹿げた思い込みを信じたのはあの時だけだ。あれから僕はVANSを見るたびに、少年のことを思い出してしまう。プラタナスの木陰で世界が止まった一瞬のことを。僕の初恋のことを。


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