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言葉には本心が宿る

新しい作品のための準備が進んだ今日だった。
昨日、作品を書くにあたっての下準備について書いた。
この記事に書いたエクササイズを一日中おこなっていたので、いま、酔ったような感覚である。この「酔う」は、お酒に酔った時のそれではなく、船酔いに近い。リズムとメロディ、リリックに合わせて、心と体が揺れている。世界は冷静なまま止まっているのに、わたしだけがぐにゃぐにゃと歪んでいる。

2020年の1月にこんなことを書いていた。

「わたしにとって物語を書くという作業は、すべての登場人物を演じるという作業です。わたしは机の前で登場人物の気持ちになって、彼らが置かれている状況を加味して、その後の展開を予期しながら、即興で演じる。出てきた言葉を書き留める。ワンシーン書くと、ペットボトルのお茶がほぼ無くなっている。」

変に思われるかもしれないが、エッセイを書くときも同じような工程を踏む。
エッセイはだいたい現在よりも前に実際にあったことを書く。だからわたしは「あの時のわたし」に戻れるように、たくさんのエクササイズをする。
エクササイズを繰り返すとある瞬間が訪れる。頭の中の引き出しから、もう過ぎ去った一瞬を取り出せる瞬間。その一瞬がまるでヴェールのようにわたしの体にまとわりついて、わたしは「あの時のわたし」になる。その瞬間、わたしはあの瞬間を言葉で書けるようになる。
文章を書き終えると、出来事は本当の意味で過去になる。ああでもなかったこうでもなかったという後悔は止み、わたしと切り離されたものになる。

だから、まあ、大変な作業なのだ。自己分析とか自己解放とか自己改革とかを一気にやるのと近い。特に健康な時にわざとこの作業をやるのはたいへんだ。なんとも思ってない過去をひっぱりだして、再定義しなくちゃいけない。あの時のわたしは何を思ってた?それってほんとに正しかった?と。正直、ちょっと病む。でもやる。なぜかって?

2017年の11月にこう書いていた。
「たとえ思っていなかったとしても≪この世でいちばんしあわせだった十二月がある。それだけで生きていける。≫と書かねばならない、わたしは作家だから。心底から思わねば紡げない、わたしは女優だから。」

この短い言葉にすべてがつまっている。わたしはとどのつまり、舞台俳優なのだ。
「本当に思っていることだけがまるで本当のように舞台の上に現れる。言葉も、態度も。大きな嘘の中に現れる小さな本当だけが、観客の心を感動させる。」
そんな舞台俳優としての哲学を信じているのだ。
17年の蓄積がこんなところに表出する。大して売れもしなかったのに恥ずかしいけれど、わたしが演劇を通して得た、言葉に対するかけがえのない財産だと思っている。

だから言う。政府の今の対応に対しておかしいと。見逃さない。使われた言葉のおかしさを。
言葉選びには、本心が出る。その人が何を考えているか、整えられた文章で覆い隠そうとしてもこぼれてしまう。露呈した本心を、言葉のあやと捉えずに、しっかり怒った方がいい。わたしは怒る。不用意な言葉は、お前たちの本心だ。いつまでも舐め腐るな。わたしは怒っている。

わたしは明日も文章を書く。本当の気持ちになって、本当に感じて、本当に泣いたり、愛したりしながら、言葉を書く。読んでくださった方に届くように。

それじゃあおやすみ、明日も元気で過ごしてね。これはね、本当に思っているから書いているんだよ。大好きな君へ。

よしもとみおり@yoshimoto_miori

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photo by Shin Ichinose

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