それから

危篤と言われてから母は3日の間、眠り続けて、すーっと息をするのをやめて亡くなった。立ち仕事を何年も続けているので体力があったのだと思う。母の人生が娘に見守れながら終了をした。

母が自ら眠るように息をひきとる方法を選択した結果である。危篤の母と過ごした私はこの3日間があったので、母の死を冷静に受け止められている。母は睡眠剤と併用したオキシドンという医療麻薬の副作用の効果もあり深く眠る事ができたと思う。

母が亡くなり自宅で母のものを整理すると母の荷物が極端に少ない事に私は気がつく。母は終活を行なっていたのだろう。私は、相続の預貯金を下ろすのに書類集めに翻弄している。以前母の同僚だった人に手伝ってもらった模倣替えをした後のすっかり別の部屋となった自宅で暮らしながら、父が亡くなった際の喪失感や悲しみとは違う母の死に向きあえている。父が亡くなった際は、悲しみは時間が癒してくれた。

母の手帳には、詳細に誰がいつ見舞いに来たのか、誰にお中元やお歳暮や何を送ったのか、誰とどこに買い物に行った、病気のことが書かれていた。このエビデンスが詰まった手帳は、母の生きた証でもあると思う。

私は母は召されたという、死の受け止め方ができていると思う。危篤の知らせで駆けつけたきょうだいと私で母に呼びかける「もうお母さん、頑張らなくても良いよ」完治しない癌の積極的な治療を行わないのだから、自然死を待つ。家族や本人の気持ちを医師だけに伝えても病棟全体で把握してないことがあるので、何度も気づいた時に、カンファレンス(情報共有の話し合い)を行ってもらうべきだと思う。担当看護師さんに気持ちを常に伝達すべきだと思った。夜勤の看護師さんが医師に掛け合い動いてくれなかったら、母の医療麻薬の投与はまだ遅かったと思う。

死の扉が開くのを待っている3日間だった。母は壮絶な痛みから開放され、愛する家族に守らながらこの世から去っていった。母のような穏やかな死に方は、私にとっても理想だと思う。私は悔いがない最期の母に尽くせたから、

ありがとうお母さんさようなら、今までありがとう。贖罪を込めて....


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